第18話「実態を知る」
午後の陽が次第に傾き始める時刻。
アルテア家の応接室には、重い沈黙が漂っている。
ブレッドは机に突っ伏すようにして座り込んだまま、しばらく身動きひとつしていない。
手紙を送ってからすでに数日が経つ。
返事が届く気配はまだない。
扉が控えめに叩かれ、レベッカが顔を覗かせたのはそんな時だった。
「ブレッド様……?」
彼女の声にはいつもの控えめさに加えて、明らかな心配の色が滲む。
ブレッドはゆっくりと顔を上げ、その表情を見て慌てて姿勢を正した。
「レベッカ、来ていたのか」
「ええ……侍女の方に、ブレッド様のご様子がおかしいと伺って」
レベッカは淡いパステルカラーのドレスの裾を静かに揺らしながら、部屋の中へと足を踏み入れる。
いつものように儚げな足取りで、彼の傍らに寄り添うように腰を下ろした。
「どうしたの?最近、様子がおかしいわ」
「……大丈夫だ」
ブレッドはそう答えたものの、その声にはいつもの余裕がまるでなかった。
レベッカはその様子をじっと見つめている。
彼女はこれまで、彼の抱える悩みに深く踏み込んだことはない。
むしろ自分自身の体調や不安を彼に受け止めてもらうことの方が多かった。
だが今、目の前にいるブレッドの姿は明らかにこれまでとは違っていた。
「本当に、大丈夫なの……?」
レベッカが袖の端を握りしめながら、もう一度静かに尋ねる。
彼女の大きな青い瞳が不安げに揺れている。
ブレッドはしばらくの間、答えを迷うように視線を彷徨わせていた。
だが堪えきれなくなったのか、やがて低く絞り出すように口を開いた。
「家の状況が、かなり悪い」
その一言を皮切りに彼の口からは堰を切ったように、これまで胸の内に押し込めてきた事実が次々と溢れ出していく。
「商人が離れて……資金も底をつきそうなんだ」
レベッカは目を見開き、息を呑んだ。
「そんなに……大変だったの?」
「鉱山でも不正があったらしい。長年、誰も気づかなかった。それに貿易のルートもいくつも途絶えて……もう、どうすればいいのか」
ブレッドの話は断片的で感情的。
貿易ルートの途絶、鉱山の不正、商人たちの相次ぐ離反――これまでレベッカが知らされていなかった事実が次々と彼の口から語られていく。
レベッカは袖を強く握りしめながら、その言葉の一つ一つをじっと聞いていた。
彼女の表情にはこれまで見せたことのない深い困惑と、抑えきれない不安が浮かんでいる。
「私、何も知らなくて……」
彼女の声が微かに震えた。
ブレッドはその様子に気づく余裕もないまま頭を抱え、続ける。
「エリザがいれば、こんなことにはならなかった」
その言葉がレベッカの胸に小さく、しかし確実に刺さる。
彼女は一瞬、何も言えなくなった。
「エリザ様が、いれば……」
繰り返すようにレベッカはその言葉を口の中で小さく呟く。
彼女はこれまで「自分が守ってもらえること」だけを当然のように考えてきた。
ブレッドの関心を独占することが彼女にとって生きるためのごく自然な行い。
だがこの家の実態をこれほど詳しく知らされるのは初めてのこと。
「私……」
レベッカが何か言いかけたところで応接室の扉がまた控えめに叩かれた。
使用人が次の予定の確認に来たのだった。
ブレッドはそれに気を取られ、慌ただしく席を立つ。
「すまない、少し席を外す」
彼はレベッカにそう告げると書類を手に応接室を出て行った。
足早に去っていくその後ろ姿をレベッカはしばらくの間、黙って見送っている。
一人、応接室に残されたレベッカは椅子に座ったまま窓の外を見つめていた。
庭の木々が夕暮れ近い光を浴びて長い影を落としている。
彼女の頭の中ではいくつもの記憶が次々とよぎっていく。
自分が体調不良を訴え、ブレッドを呼び出したあの夜のこと。
夜会の席で彼の腕を取り、隣に立ったこと。
そしてエリザが静かに一歩、後ろに下がっていったあの背中。
「私、何か悪いことをしたのかしら」
その言葉が自然に唇から漏れた。
悪気があったわけではない。
ただ弱く、守ってほしかっただけ。
体が弱く生まれ、家も没落気味だったレベッカにとって誰かに頼ることは生き抜くための当然の術。
守られることが幸せの形だとずっと信じてきた。
だが結果として自分が家を支える人物を追い出し、ブレッドを依存させ、この家をここまで追い詰めているのかもしれない――そんな考えが初めて彼女の胸にはっきりとした形を持って浮かび上がってくる。
窓の外で鳥が一羽、鳴きながら飛び立っていった。
レベッカはその羽音を耳にしながらしばらくの間、動くことができずにいる。
――私が、原因なのだろうか。
その問いが頭の中で何度も繰り返される。
これまで自分が守られる側でいることに疑問を持ったことは一度もない。
だが今、目の前に突きつけられた家の実態は彼女にこれまで考えたこともなかった問いを突きつけていた。
レベッカは膝の上で扇の骨をそっと握りしめた。
その指先がわずかに白くなる。
「私、何も知らないままで……」
呟く声にはこれまでにない切実な戸惑いが滲んでいた。
彼女は自分が受け取ってきた優しさが誰かの犠牲の上に成り立っていたのかもしれないという可能性に初めて正面から向き合い始めていた。
☆
そのころ、公爵家の領地では穏やかな午後の時間が流れている。
エリザはアレックスと並んで改革の最終段階に関する資料を確認していた。
二人の前にはこれまでの成果をまとめた分厚い報告書が広げられている。
窓から差し込む光が机の上の紙面を柔らかく照らし出す。
「これで当初の計画はおおむね達成できそうだ」
アレックスが資料の最後の頁をめくりながら静かにそう告げた。
エリザはその言葉に小さく頷く。
「はい。皆様のご協力があってこそです」
「君がいてくれて助かった」
アレックスの言葉にはいつもの簡潔さの中に確かな実感が込められていた。
エリザは静かに微笑む。
「こちらこそ。一人で抱えずに済んでいます」
そう答えてから、エリザは自分の言葉に少し驚いた。
以前の自分なら、きっと「大丈夫です」としか言わなかっただろう。
いつの間にか、素直に助けを認められるようになっている。
かつてはすべてを一人で背負うことが当然だった。
だが今、こうして誰かと分かち合いながら物事を進める感覚が少しずつ彼女の中に根付き始めている。
アレックスは資料を閉じ、椅子の背に軽く体を預けた。
「少し、休憩にしないか」
「そうですね」
エリザはそう答えながら窓の外に目をやった。
領地の景色が夕暮れ近い光の中で穏やかに広がっている。
二人の間にはもはや警戒ではなく確かな信頼が静かに流れていた。
遠くアルテア家でレベッカが初めて自分の行動の結果と向き合い、不安に揺れ始めていることなどエリザは知る由もない。
エリザは懐から銀の懐中時計を取り出し、右手でその表面をそっと撫でた。
窓の外の景色を見つめながら彼女は静かに心の中で呟く。
「私はもう、こちらの時間を生きている」
あちらの「場所」を離れたときとは違う、もっと確かな実感だった。
その思いが穏やかに彼女の胸を満たしていく。




