第19話「朝の庭」
その日の朝はこれまでになく澄んだ空気に包まれていた。
エリザはいつものように早くに目を覚まし、窓辺に立って外の景色を眺めている。
改革がひと段落したこの数日、公爵家の領地にはこれまでとは違う穏やかな空気が流れていた。
朝靄が遠くの畑の上に薄く漂っている。
侍女が朝の身支度を手伝いながら、ふとこんなことを口にした。
「クレール様、今日は何か特別なご予定が?」
「いいえ、特には……どうして?」
「いえ、アレックス様が朝早くから庭師に何やらお話をされていたようで。花を特にきれいに整えるようにと」
エリザはその言葉に少しだけ首を傾げた。
心当たりはない。
だがそれ以上深く考えることもせずいつもの支度を続けた。
朝食を終えた後、エリザはいつものように執務室へと向かおうとする。
だが廊下の途中でアレックスと行き合った。
彼はいつもと変わらぬ簡素な装いだったが、その表情にはどこかいつもより静かな落ち着きが漂っている。
「クレール嬢、少し庭に出てみないか」
その一言は仕事の話とは思えない静かな口調。
エリザは一瞬戸惑いを覚えたが、すぐに頷いた。
「わかりました」
執務室の方角を一度だけ振り返る。
今日予定していた作業は後回しにしても構わない。
彼女は右手で懐中時計に軽く触れてから、アレックスの後に続いて歩き出した。
廊を進み、裏手の扉から外に出ると、そこにはこれまであまり足を踏み入れたことのない小さな中庭が広がっている。
石畳の道が緩やかに曲がりながら庭の奥へと続いていた。
両脇には季節の花々が丁寧に手入れされた様子で咲き誇っている。
「こちらの庭は……」
「あまり人が来ない場所だ。静かに話をするには都合がいい」
アレックスはそう言いながら先を歩いていく。
エリザはその後をついて歩きながら、花の香りが風に乗ってふわりと漂ってくるのを感じていた。
石畳の道を進むにつれ、庭の奥には小さな噴水があることに気づく。
水音が静かに、規則正しく響いていた。
周囲には誰の姿もない。
使用人たちもあえてこの場所には近づかないよう言い含められているのかもしれない――そんな気配がエリザには感じられた。
噴水のそばに白い石造りのベンチが一つ、置かれている。
アレックスはそこで足を止めた。
エリザも隣に立ち、周囲を見渡した。
風が頬を柔らかく撫でていく。
木々の葉がさらさらと音を立てて揺れていた。
誰もいない、二人きりの空間。
これまでこうした静かな場に彼と二人だけで立ったことはなかったように思える。
「今日は何か……」
エリザがそう切り出しかけると、アレックスは静かに首を振った。
「まず、聞いてほしい」
その声にはいつもの簡潔さに加えて、どこか慎重な響きがあった。
エリザは口をつぐみ、彼の次の言葉を待つ。
アレックスはしばらくの間、噴水の水面を見つめていた。
それからゆっくりとエリザの方へと向き直る。
黒い瞳がまっすぐに彼女を捉えた。
「結婚してほしい」
その言葉は飾り気なく簡潔。
だがその簡潔さの中に確かな重みが込められているのがエリザにはすぐにわかる。
「正式に君を妻として迎えたい」
エリザは息をのんだ。
予想していなかったわけではない。
この数ヶ月、二人の間に流れてきた空気、彼の言葉、その一つ一つの積み重ねがいつかこうした形に結実することを心のどこかで予感していなかったわけではなかった。
それでも実際に言葉として届いたその瞬間の衝撃は思っていた以上に大きい。
「私は……」
エリザが何か答えようとすると、アレックスはそれを遮るように続けて静かに自分の思いを語り始めた。
「君の能力を高く評価している。だが、それだけじゃない」
彼は一度言葉を切った。
風が二人の間を静かに通り抜けていく。
「一人の女性として大切に想っている」
エリザはその言葉を噛み締めるように静かに聞いていた。
「僕には以前、婚約を一方的に破棄された経験がある」
アレックスの声は淡々としていたが、その手が無意識に自分の袖口に触れ、ひと撫でしたのをエリザは見た。
感情を見せない彼が、唯一見せた小さな仕草だった。
これまで彼が自分の過去について深く語ることはほとんどなかった。
「親の都合で決められた話だった。理由もまともに説明されないまますべてが終わった。……それ以来、都合で人を捨てるような行為を僕はなによりも嫌っている」
エリザはその言葉に静かに頷いた。
彼の実力主義が単なる理念ではなくこうした痛みの経験から築かれたものであることを初めてはっきりと理解した気がする。
「だから君を都合で選んだつもりはない」
アレックスはそう言うと彼女の目をまっすぐに見つめた。
「僕は君自身を選びたいと思っている」
しばらくの間、二人の間に沈黙が流れた。
噴水の水音だけが静かに響いている。
エリザは胸の奥にこれまで経験したことのない複雑な感情が渦巻いていくのを感じていた。
それは喜びであり、同時にこれまで抱え続けてきた傷への痛みでもある。
彼女はゆっくりと口を開いた。
「私は……」
声がわずかに震える。
「アルテア家で『優秀だから』と何度も、何度も我慢することを求められてきました」
その言葉を口にすることは彼女にとってこれまで誰にも語ったことのない深い部分に触れる行為だった。
「婚約者として隣に立つべきときにいつも後回しにされました。誰も私を選んではくれませんでした。だから……」
エリザは一度言葉を止めた。
喉の奥が微かに震えている。
それでも彼女は続けた。
「私はまた都合の良い道具として選ばれるのが怖かったのです」
その告白にアレックスは否定も慰めも口にしない。
ただ真摯な表情で彼女の言葉の一つ一つを静かに受けとめていた。
しばらくの沈黙の後、彼は短く、しかし確かな声で応えた。
「もうそんな事は気にしなくていい。僕がいる」
その言葉に、これまで幾度となくかけてもらった言葉のすべてが重なった。
「君が選ぶ道を全力で支える」
長く張りつめていた何かが、ゆっくりとほどけていく。
目の奥がじんと熱を持つ。
彼女はそれを堪えることなくその熱を受け入れた。
風がまた一つ、二人の間を優しく吹き抜けていく。
花の香りがその風に乗って漂う。
エリザは銀の懐中時計を右手でそっと握りしめた。
長い間彼女を支えてきたその小さな時計が、今この瞬間これまでとは違う意味を持ち始めているように感じられる。
彼女はゆっくりと顔を上げた。
「自分を選んでくれる人」
――その存在が初めて確かに目の前にいる。
彼女は小さく、しかしはっきりと頷いた。
「……お願いします」
その言葉を口にした瞬間、エリザはこれまで胸の奥に沈み続けていた重石が確実に消えていくのを感じた。
アレックスはその返答を受けて初めて柔らかな微笑みを浮かべた。
それはこれまで彼が見せたことのない心からの表情。
「ありがとう」
短い言葉だったが、そこにはこれまでの簡潔さとは違う確かな温もりが込められていた。
二人はしばらくの間その場に立ち尽くしたままこの瞬間を噛み締めている。
噴水の水音が変わらず二人を包むように響き続けていた。
やがてアレックスが手を差し出した。
エリザはその手にそっと自分の手を重ねる。
二人は並んで庭の奥へとゆっくりと歩き始めた。
言葉は少なくても確かな安心感が二人の間に流れていた。
石畳の道を二人はゆっくりと進んでいく。
花々の間を抜け、庭の奥へと続く小道を寄り添うように歩いていった。
遠くアルテア家では破産の影が確実に濃くなっていることをエリザはもう知っている。
それでも戻るつもりはない。
「私は私の人生を生きる」
その決意が穏やかに彼女の胸を満たしていた。
風が優しく庭の花々を揺らし続けている。




