第20話「廊下の現実」
アルテア家の客間。夜が更けても、レベッカはなかなか寝付くことができずにいた。
寝台の上で何度も寝返りを打ちながら、彼女は天井をぼんやりと見つめ続けている。
数日前、ブレッドの口から聞かされた家の深刻な状況――その言葉が頭から離れず、眠りへと誘う静けさを彼女から奪っていた。
「商人が離れて……資金も底をつきそうなんだ」
あの日の彼の苦しげな声が、耳の奥に繰り返し蘇る。
これまで、レベッカにとってアルテア家の内情は遠い世界の話だった。
自分はただブレッドに寄り添い、彼の優しさに包まれていればいい――そう無意識のうちに思い込んでいた。
だが、あの日以来、その前提が少しずつ揺らぎ始めている。
結局、眠ることを諦めたレベッカは静かに寝台を抜け出した。
薄手の肩掛けを羽織り、忍び足で部屋を出る。
屋敷の中はすでに寝静まり、廊下には燭台の灯りがまばらに残っているだけ。
彼女は目的もなく、ただ屋敷の中をゆっくりと歩き回っていた。
夜の静けさの中を歩くことは彼女にとって珍しいこと。
いつもなら体調を理由に早くに休むことがほとんどだったから。
廊下を進むうち、彼女はブレッドの部屋の前に差し掛かる。
扉がわずかに開いており、中から低い声が漏れてくることに気づいた。
聞き覚えのある、家令ガルドの声。
レベッカは無意識のうちに足を止めていた。
声をかけるべきか、それとも静かに立ち去るべきか一瞬迷う。
だが、続いて聞こえてきた言葉に、彼女の足はその場に縫い付けられたように動かなくなった。
「このままでは、来週にも主要な支払いが止まります」
ガルドの声には、これまで彼女が知る穏やかな響きとは違う、切迫した緊張感がある。
「……破産申請、を検討せざるを得ません」
その一言がレベッカの耳に、はっきりと届いた。
彼女は思わず息を止める。
破産――その言葉の重みを彼女はこれまで、正しく理解していなかったのかもしれない。
頭では家の状況が悪いと聞かされていた。
だが、実際にその言葉がはっきりとした形で語られるのを耳にした瞬間、レベッカの胸に初めて冷たい実感が広がっていった。
彼女は壁にそっと背を預ける。
心臓が早鐘のように打っている。
それでも扉の向こうから漏れてくる会話に、彼女は耳を澄まし続けた。
続く言葉の詳細までは、レベッカには聞き取れなかった。
鉱山のこと、貿易ルートのこと、数字の何かが積み重なっていくような、ガルドの淡々とした声だけが断片的に耳に入ってくる。
それでも「破産」という一語だけは、はっきりと胸に残っていた。
その一言だけで、これまで断片的に感じていた不安のすべてが、一つの重さとしてレベッカの中に定まっていく。
ブレッドの返答は聞こえない。
おそらく何も言葉を返せずにいるのだろう。
その沈黙がかえって事態の深刻さを、レベッカに確かに物語っていた。
彼女はしばらくの間その場に立ち尽くしていた。
やがてこれ以上聞いているべきではないと感じ、静かに自分の部屋へと戻り始める。
廊下を戻る途中、レベッカは母親のイサベルとばったり鉢合わせた。
「こんな時間に、どうしたの」
イサベルは娘の蒼白な顔を見て、すぐに何かを察したようだった。
彼女はレベッカの顔をしばらくの間じっと見つめていたが、やがて静かに、しかし確かな声で告げる。
「聞いてしまったのね」
その言葉にレベッカは否定することができなかった。
イサベルは娘の肩に手を置き、廊下の隅へと静かに誘導する。
人目を避けるように、二人だけの場所へと。
イサベルはこれまでも、レベッカの体調が優れないと聞くたびに、なぜか少しだけ安堵したような顔を見せることがあった。
その意味を、レベッカは今夜初めて理解する。
「だからこそ、あなたは今こそブレッド様をしっかり繋ぎ止めておきなさい」
その言葉にレベッカは思わず目を見開いた。
「何を言っているの、母様。アルテア家は今、破産寸前なのよ」
「わかっているわ、それくらい」
イサベルは、静かに、しかしどこか苦しげに答えた。
「今更、手を引けると思う?もう社交界中にあなたとブレッド様の噂は広まっている。今、離れればうちの家の評判に傷がつくだけよ。それに……」
彼女は、一度、言葉を切った。
「爵位や縁故までは、簡単には失われない。今の資産がなくなっても、アルテア家の名前はまだ、価値を持っている。あなたがしっかりとその立場を掴んでおけば、いずれ道は開けるはずよ」
「そんな、賭けみたいな……」
「賭けでもいいのよ、レベッカ。うちに他の選択肢なんて、もう残っていないのだから」
その声には、追い詰められた者だけが持つ切実な響きが滲んでいた。
「弱さを武器にしなさい」
イサベルは続ける。
「この危機を利用すれば、あなたの立場はむしろ強くなる。今あなたが寄り添えば、ブレッド様はあなたなしではいられなくなる」
レベッカはその言葉に、これまでにない強い違和感を覚えた。
母の言葉はこれまでも何度も彼女を導いてきたものだった。
「弱くあれば周囲が注目してくれる」――その教えを彼女は疑うことなく受け入れてきた。
だが今、その言葉がこれほどまでに冷たく、計算高いものとして彼女の耳に響いたのは初めてのこと。
「私は……」
レベッカは袖を強く握りしめながら声を絞り出した。
「そんなつもりで傍にいたわけじゃない」
その言葉はこれまで彼女が母に対して決して口にしたことのないもの。
イサベルは一瞬驚いたように娘の顔を見つめた。
それから眉をひそめ、諭すようにもう一度口を開く。
「レベッカ、現実を見なさい。私たちの家も決して裕福ではないの。あなたがしっかりとした後ろ盾を得なければ、私たちの生活は――」
「わかってる!わかってるわ、母様の言うことは」
レベッカはこれまでにない強さで母の言葉を遮った。
「でも、私は……私は、そんなふうに人を利用したくない」
母娘の間にこれまでにない明確な亀裂が走る。
イサベルはしばらくの間娘の顔を見つめていたが、やがて小さく息を吐き、静かに背を向けた。
「あなたも、いずれわかるわ」
それだけを言い残しイサベルは廊下の向こうへと去っていく。
その後ろ姿をレベッカはしばらくの間じっと見つめていた。
一人になったレベッカは自分の部屋に戻ると窓辺に立ち尽くした。
夜の庭が月明かりの下、静かに広がっている。
先ほど盗み聞きしたガルドの言葉と母の言葉が、頭の中で混ざり合っていく。
破産、鉱山の不正、商人たちの離反――そして、「弱さを武器にしなさい」という母の教え。
彼女の脳裏にこれまでの記憶が次々と蘇る。
自分が体調を理由にブレッドを呼び出したあの夜のこと。
夜会の席で彼の腕を取り、隣に立ったこと。
そして、エリザが静かに一歩後ろに下がっていったあの後ろ姿。
「私が、邪魔だったの?」
その言葉が今度はこれまでよりもはるかに強く、痛みを伴ってレベッカの胸に突き刺さった。
これまで感じていた曖昧な不安ではない。
「もしかして自分が原因なのかもしれない」という、否定しきれない確かな自己認識。
レースの扇子を握りしめたその指先が白く変色していく。
罪悪感と、このままでは自分もすべてを失うのではないかという恐怖が同時に彼女の胸に押し寄せてきた。
その夜遅くになってアルテア家に正式な通知が届く。
主要な債権者からのものだった。
「これ以上の猶予はできない」という明確な通告が、家の状態を名実ともに破産寸前へと追い込んでいく。
ブレッドは自室で頭を抱えたまま動くことができずにいた。
レベッカは自分の部屋で明かりもつけないまま、ただじっと座り続けている。
母の言葉を聞いた夜から、繰り返し頭に浮かび上がってきたのは、これまで一度も数えたことのなかった問いだった。
――自分がこれまで受け取ってきた優しさは、いったい誰の何を犠牲にして成り立っていたのだろう。
その問いが繰り返し、繰り返し彼女の心を支配していた。
数日前に芽生えた曖昧な不安は、今もう消すことのできない確かな後悔へと姿を変えている。
遠く公爵家の領地では、アレックスとエリザが穏やかな時間を過ごしていた。
レベッカはその温もりを知らないまま、ただ一人暗い部屋で自分の弱さと向き合い続けている。
窓の外の月が雲の切れ間から静かに彼女の横顔を照らし出していた。




