第21話「涙の言葉」
その日は、朝から曇り空だった。
エリザは、いつもより静かな気持ちで執務室の窓辺に立っている。
改革の大きな山場を越え、公爵家の領地にはこれまでとは違う落ち着きが広がっていた。
窓の外に見える畑では、農夫たちが収穫を終えた後の土を丁寧に耕し直している。
その平穏な空気を破るように、家令が控えめに扉を叩いた。
「クレール様。アルテア伯爵家のブレッド様が、お見えになっております」
その名を聞いた瞬間、エリザはしばらくの間、何も答えられない。
窓の外を見つめたまま、彼女はゆっくりと息を整える。
「……通してください」
そう答えたとき、エリザの声はいつもと変わらぬ落ち着きを保っていた。
だが、胸の奥には確かな緊張が宿る。
家令が下がろうとしたところで、廊下の向こうからアレックスが姿を見せた。
彼はすでに事情を耳にしていたのか、いつもより張り詰めた表情を浮かべている。
「一人で会うつもりか」
「はい。……そうさせてください」
エリザは静かにそう答えた。
アレックスはしばらくの間、彼女の顔を見つめている。
何か言いたげな様子だったが、やがて小さく頷いた。
「必要なら、傍にいる」
「ありがとうございます」
アレックスは部屋の外で待つことを選んだ。
彼のその判断が彼女への信頼の表れであることを、エリザは静かに受け取っている。
一人になった応接室で、エリザは椅子に座り直し、深く息を吸い込んだ。
かつての婚約者を迎えるための覚悟を静かに固めていく。
扉が開き、案内された男が部屋に入ってきた。
一目見て、エリザは驚きを隠せなかった。
以前の華やかさはすでに、どこにも見当たらない。
頬はこけ、目の下には濃い隈が刻まれている。
かつて自信に満ちていた足取りは、今は重く覚束ないものになっていた。
ブレッドだった。
彼はエリザの前で立ち止まると、しばらくの間言葉を失ったように彼女を見つめていた。
そして次の瞬間、その場に膝をつく。
床に手をつき深く頭を下げるその姿は、これまでのブレッドからは想像もできないものだった。
「頼む……戻ってきてくれ」
声が震えている。
「僕は、何を失ったのかさえ、今になってやっと分かったんだ」
エリザはその姿を静かに見下ろしていた。
心が大きく揺れることはない。
ただこれまでの記憶が静かに脳裏をよぎっていくのを感じる。
ブレッドは頭を下げたまま、言葉を続けた。
「アルテア家は、破産寸前だ。商人は誰ももう相手にしてくれない。鉱山も……全部駄目になった」
彼の声にはこれまでの慢心の欠片も、もう残っていない。
「レベッカのことも、家のことも……全部僕のせいだ。わかっているんだ。今更こんなことを言う資格なんて、僕にはない」
彼は床に額をこすりつけるようにして、なおも言葉を紡ぐ。
「それでも頼む。戻ってきてくれ。君にしか、この家を救うことはできない」
エリザはしばらくの間、その言葉を黙って聞いていた。
かつての自分なら、きっとこの場で手を差し伸べていただろう。
「大丈夫です」といつものように微笑みながら、彼の求めに応じていたかもしれない。
だが、今の彼女は動かない。
深夜の執務室で一人、数字と向き合っていた夜のこと。
夜会の席で隣の椅子を奪われた瞬間のこと。
外交交渉の端の席からただ見守るしかなかった時間のこと。
そして、「エリザは優秀だから」と当然のように言われ続けたあの言葉たち。
それらすべてが今、静かに彼女の中で像を結んでいる。
エリザはゆっくりと口を開いた。
「顔を上げてください」
その声は穏やかでありながら、揺るぎのないもの。
ブレッドはおそるおそる顔を上げた。
彼の目には涙と縋るような希望の色が混ざり合っている。
「もう遅いのです」
エリザは初めて、はっきりとブレッドの目を見て言った。
これまで幾度となく彼の視線から逃げるように伏せてきた目を、今は逸らす理由がなかった。
ブレッドの表情が大きく歪む。
「そんな……エリザ、頼む。僕は本当に反省している。もう一度機会をくれれば――」
「あなたが私を選ばなかったように」
エリザは彼の言葉を静かに遮った。
「私も、もうあなたを選びません」
その言葉には怒りも憎しみも込められていなかった。
ただこれまでの日々の総決算として静かに放たれた、確かな決別の言葉。
ブレッドは何か言おうとしたが、言葉が出てこないようだった。
彼は床に膝をついたままうなだれる。
肩が小さく震えていた。
エリザはしばらくの間、その姿を見つめる。
憐れみに近い感情が胸の片隅に微かに浮かんだ。
だが、それが決意を揺るがすことはない。
彼女は静かに立ち上がった。
「これで、失礼します」
一礼し、エリザは応接室の扉へと足を向ける。
ブレッドはその背に何か言葉をかけようとするそぶりを見せたが、結局何も声にはならなかった。
扉を開けると、廊下にはアレックスが立っている。
彼はエリザの表情を見てすべてを察したように静かに近づいてきた。
「終わったか」
短い問いだった。
エリザは小さく頷く。
「よく耐えた」
アレックスはそれだけを言うと、彼女の隣にそっと並んだ。
二人はしばらくの間無言のまま廊下を歩く。
窓の外に目をやると、朝からの曇り空が少しずつ晴れ間を見せ始めていた。
淡い光が廊下の床に静かに差し込んでいる。
エリザはその光を見つめながら、胸の奥にあった重石がようやく本当に消えていくのを感じていた。
長い間背負い続けてきた何かがここで静かに手放されていくような感覚。
「少し、外の風に当たろうか」
アレックスがそう声をかけた。
エリザは静かに頷く。
そこに後方から慌ただしい足音が近づいてきた。
「クレール様」
振り返ると、家令が息を切らせながら駆けてくるところだった。
「男爵令嬢のレベッカ様が、ただいま到着されました」
その名を聞いた瞬間、エリザの足が自然と止まる。
隣を歩いていたアレックスも静かに歩みを緩めた。
彼は何も言わず、ただエリザの判断を待つようにその場に立っている。
エリザはしばらくの間廊下の先を見つめていた。
ブレッドとの対面を終えたばかりで、まだ心の整理もついていない。
それでもこのまま立ち去ってしまえばきっと後になって何かを避けたという感覚だけが残るだろうという予感があった。
「わかりました」
彼女は静かにそう告げる。
「もう一度戻ります」
家令が一礼して先に戻っていく後ろ姿を見送りながら、アレックスが低く尋ねた。
「一人で構わないか」
「はい」
「傍にいる」
その短い言葉に、エリザは小さく頷いた。
過去の二人と向き合うことは自分自身で決着をつけなければならない。
それでも扉の外に彼がいてくれるという事実だけで、足取りは不思議なほど確かなものになっている。
応接室の扉に手をかけ、エリザは一度だけ息を吸い込んでから中へと入った。
部屋の中では先ほどと変わらずブレッドが床にうなだれたまま座り込んでいる。
彼は扉の開く音に顔を上げたが、その表情にはまだ現実を受け止めきれない放心があった。
扉が再び開き、小柄な人影が入ってきたのはそれからすぐのこと。
淡い水色のドレスを纏ったレベッカが震える足取りで部屋に入ってくる。
手にしたレースの扇子を握りしめたまま開くこともせず、彼女は目を赤く腫らしていた。
エリザの姿を認めると、レベッカはその場に立ち尽くす。
しばらくの沈黙の後、彼女は震える手で袖を目元に押し当て、涙をこぼし始めた。
レベッカは何度も言葉を探すように口を開きかけては、そのたびに閉じた。
数日かけてようやくたどり着いた答えを、今この場で言葉にするのは思っていたより難しい。
「ごめんなさい」
それだけを、やっと絞り出す。
「私が邪魔だったのよね。全部私のせい……」
レベッカはそれ以上言葉を続けられないまま、肩を震わせて泣き続ける。
エリザは何も言わずその様子を見つめていた。
「私、ブレッドの関心を独占して……あなたを後回しにさせてしまった。ずっとそのつもりはなかったの。ただ守ってもらいたくて、それだけで……」
言葉は途切れ途切れに続く。
「母に家の再建のためにあなたに近づくように言われていたの。ブレッドに守ってもらうことで自分の価値を感じていた。それが……」
レベッカはそこで一度、大きく息を吸い込んだ。
「間違っていたんだって、今わかったの」
ブレッドはその隣で何も言えないままうなだれ続けている。
かつての婚約者と今の恋人が揃って過去を悔いる姿を、エリザは静かに見つめていた。
「戻ってきてあげて」
レベッカは震える声でそう懇願する。
「お願い……あなたがいないとこの人の家は本当に終わってしまう」
エリザは二人を静かに見つめた。
怒りでも憎しみでもない。
ただ遠いところを見るような目で、彼女は目の前の光景を眺めている。
かつての自分ならここでもきっと「大丈夫です」と引き受けてしまっていただろう。
誰かの涙や苦しみを前にすると自分の傷を後回しにしてでも手を差し伸べてきた。
それがこれまでの自分。
だが今、彼女の心は静かに凪いでいる。
エリザはゆっくりと口を開いた。
「私は自分を選んでくれる人と生きます」
その声は穏やかでありながら、揺るぎのないものだった。
レベッカの涙もブレッドの土下座も、もう彼女の心を動かすことはない。
「あなたたちが私を選ばなかったように、私も自分の人生を選びます」
エリザは続けた。
「もう……終わっているのです」
その声には哀れみに似た響きすら含まれていた。
目の前で崩れ落ちていく二人を、彼女は憎しみではなくただ静かな諦めに近い眼差しで見つめている。
レベッカはその場に膝をつき、声を殺して泣き続けた。
ブレッドは拳を強く床に押し付け、何も言えないまま身を固くしている。
エリザはそれ以上何も言わず、静かに一礼した。
踵を返し扉へと向かう。
扉を開けると外にはアレックスが待っていた。
アレックスは何も聞かず、ただ隣に並んだ。
言葉はいらないというように、エリザの歩調に自分の歩調を合わせるだけだった。
それだけで、これまで張り詰めていたものがようやく緩んでいくのを感じ、初めて本当の意味で安堵の息を吐く。
窓から差し込む光が廊下の床を静かに照らし出していた。
エリザは後ろに残した二人の嗚咽を背に、アレックスと並んで歩き出す。
人生の過去の扉を彼女は今静かに、確かに閉じようとしていた。




