第22話「新しい隣」
エリザとアレックスの婚約発表の日取りが決まってから、公爵家の屋敷にはこれまでとは違う慌ただしさが漂い始めていた。
朝から使用人たちが大広間の飾り付けに追われ、庭師たちは招待客を迎えるための花壇を念入りに整えている。
エリザはその様子を執務室の窓越しに眺めながら、まだどこか現実味の薄い気持ちで過ごしていた。
「クレール様、お召し物の最終確認をお願いできますか」
侍女に呼ばれ、エリザは控え室へと足を向ける。
用意されたのはこれまで纏ってきたどのドレスよりも上品で、繊細な仕立てのもの。
淡い色合いは変わらないが、生地の質感や襟元の刺繍の細やかさに、これが特別な日のためのものであることが表れていた。
「お美しいですわ」
袖を通したエリザを前に、侍女は感嘆したような声を漏らす。
エリザは鏡に映る自分の姿を、しばらくの間、静かに見つめていた。
これまで社交の場に立つたびに、自分の役割はいつも決まっていた。
婚約者として隣に立つべき人。
だが、その立場を正当に守られたことは一度もない。
今、鏡の中にいる自分は、その過去とはまったく違う場所に立とうとしている。
支度が整う頃、扉が控えめに叩かれ、アレックスが姿を見せた。
彼はいつもの簡素な装いとは違い、今日は襟元にも袖口にも丁寧な仕立てが施された正装を纏っている。
その姿はこれまで見てきたどのアレックスよりも堂々として見えた。
「緊張しているか」
彼は静かにそう尋ねる。
エリザは小さく首を振り、それから正直な気持ちを口にした。
「いいえ。ただ……初めてなので」
初めて、誰かに正式に選ばれ、その場に立つこと。
これまで幾度となく夜会に出席してきたが、今日という日の意味はそれらすべてとは根本的に違っていた。
アレックスはその言葉に静かに頷く。
それ以上多くを語ることはせず、ただ彼女の隣に立ち、腕を差し出した。
「行こうか」
エリザはその腕にそっと手を添える。
二人は並んで大広間へと歩き出した。
廊下を進むにつれ、遠くから招待客たちの談笑の声が少しずつ大きくなってくる。
エリザはその音を聞きながら、これまでとは違う種類の緊張が胸の内に広がっていくのを感じていた。
それは恐れではなく、これから始まる何かへの静かな期待に近いもの。
大広間の扉が開かれると、すでに多くの貴族たちが集まっていた。
天井から降り注ぐシャンデリアの光が空間全体を輝かせ、歓談の声と弦楽の音色が重なり合う。
アレックスはエリザを伴って大広間の中央へと進み出た。
招待客たちの視線が自然と二人へと集まっていく。
やがて楽団の演奏が止み、会場の空気が静かに引き締まった。
アレックスは周囲を見渡し、落ち着いた声ではっきりと告げる。
「彼女は私の婚約者です」
その一言に会場のあちこちから驚きと感嘆の入り混じったざわめきが広がった。
「これより共に歩みます」
アレックスの言葉が終わると同時に、会場に大きな拍手が沸き起こる。
エリザはその音の波に包まれながら静かに、深く頭を下げた。
拍手が収まる頃、招待客たちが次々と二人の元へと近づいてくる。
「おめでとうございます、クレール様」
「公爵家に相応しい方でいらっしゃいますね」
これまで彼女を遠巻きに見ていた者たちが今は笑顔で言葉をかけてくる。
エリザはその一つ一つに丁寧に礼を返しながら、心のどこかでその落差を冷静に見つめている自分がいることに気づいていた。
ふと人垣の向こうに、見覚えのある顔が見える。
かつて夜会で扇子越しに彼女を嘲っていた令嬢たちだった。
彼女らは今、遠慮がちにこちらを窺いながら、それでも近づく機会を明らかに探っているようだった。
エリザはそちらへあえて視線を向けることはしない。
過去の彼女たちの言葉が今、心を揺らすことはもうなかった。
その挨拶の合間、エリザはふと気づいたことがあった。
招待客の輪の中で、自分の名が呼ばれるたびに、アレックスは必ず一度、彼女の方を見る。
それは確認のようでいて、確認である必要のない、ただの習慣のような仕草だった。
誰かに問われて初めて振り向くのではなく、最初から隣にいることを前提にされている。
その違いだけで、これまでとはまったく違う場所に自分が立っていることが分かった。
祝いの言葉が一段落したところでアレックスはエリザを促し、人垣の隙間から大広間の端の方へと歩を進める。
しばらく歩くとそこには大きな窓があり、外の庭園が月明かりに照らされて静かに広がっているのが見えた。
人々の輪から少しだけ離れたその場所で、アレックスはエリザの手をそっと取った。
周囲の視線を気にする様子はまるでなく、彼は彼女の目をまっすぐに見つめ、静かに告げる。
「ずっと隣にいてくれ」
その言葉はこれまで彼が口にしてきたどの言葉よりもまっすぐで、飾り気のないもの。
エリザは一瞬、胸の奥が熱くなるのを感じた。
かつて婚約者として隣に立つべき場所から幾度となく外されてきた。
夜会の隅で一人、席を立った夜。
外交交渉の端の席からただ見守るしかなかった時間。
あのときの自分と今、こうして堂々と隣に立っている自分とが静かに重なっていく。
「はい」
エリザは小さく、しかし確かな声でそう答えた。
しばらくの間、二人は窓の外の景色を眺めながらそこに立っていた。
会場からはまだ賑やかな談笑の声が聞こえてくる。
それでもこの窓辺だけは二人だけの穏やかな時間として静かに流れていた。
やがて発表の場が落ち着き、招待客たちがそれぞれの歓談へと戻っていく頃、アレックスはエリザを連れて静かな廊下へと足を向ける。
窓から差し込む月光の中、エリザは初めて心から安堵する笑みを浮かべていた。
「無理はしていないか」
アレックスがそう尋ねると、エリザは首を振り、答える。
「大丈夫です」
口にしてから、エリザは少し笑った。
同じ言葉のはずなのに、今はもう、誰かに気を遣わせるための音ではなくなっている。
会場の方から遠く、楽団の演奏が新しい曲を奏で始める音が聞こえてくる。
エリザはその音に耳を澄ませながら、隣に立つ人の存在をそっと確かめるように彼の手にそっと力を込めた。




