第23話「自分の人生」
婚約発表の噂は思いのほか早く、社交界の隅々にまで広まっていった。
アルテア家にもその知らせは数日のうちに届く。
使用人の一人が街で仕入れてきた情報誌を恐る恐る屋敷に持ち帰ったのが始まり。
それは瞬く間に屋敷の中を巡り、やがてブレッドの手元にも渡ることになった。
その日の午後、ブレッドは屋敷の一室でその情報誌を手にしている。
窓辺に立ち、記事に目を通す彼の表情は日に日にやつれていく一方。
「公爵家次期当主と、元アルテア伯爵家婚約者の正式発表」
見出しの文字を彼は何度も読み返す。
文中には婚約発表の様子が詳しく書き記されていた。
会場の華やかさ、招待客たちの祝福、そして二人が並んで立つ姿への賞賛――そのどれもが今のアルテア家とはあまりに対照的なもの。
扉が控えめに叩かれ、レベッカが顔を覗かせた。
彼女は以前よりもさらに痩せた様子で、表情にも生気が乏しい。
「ブレッド様……」
「見たか、これ」
ブレッドは力なく情報誌を差し出した。
レベッカはそれを受け取り、しばらくの間文面に目を落としていた。
彼女の手が微かに震えている。
窓の外には荒れかけた庭が広がっている。
以前は頻繁に馬車の音が聞こえていたはずのこの屋敷も、今では静けさばかりが際立つようになっていた。
「本当に、戻ってこないのね」
レベッカが掠れた声で呟く。
ブレッドは何も答えられない。
ただ窓枠に拳を軽く押し付けていた。
しばらくの沈黙の後、ブレッドは机の上に積まれた別の報告書に手を伸ばす。
それは鉱山と貿易の現状をまとめた最新のもの。
彼は頁をめくりながら続けて内容を確認していく。
鉱山の稼働は不正発覚の影響でほぼ止まっていた。
主要な交易路はすでに他の家へと移り、戻ってくる見込みはないに等しい。
取引先の商人たちは口を揃えて「クレール嬢がいらっしゃらない以上、信用が置けない」と距離を置き続けている。
再建の目処は完全に立っていなかった。
レベッカは報告書の内容を傍らでじっと聞いていた。
彼女は袖の端を強く握りしめている。
後悔の言葉は、もう二人とも口にしなくなっていた。
言ったところで何も変わらないことに、ようやく気づき始めている。
代わりに二人の間にあったのは、明日の食事をどう工面するか、という至って具体的な話だった。
かつて当然のように享受していたものが、今はひとつひとつ数え上げなければ手に入らない。
エリザがどれほど家を支え、どれほど我慢を重ねていたのか。
それを失って初めて理解した自分たちの遅さが、今あまりにも情けなく思える。
窓の外に広がる遠い空の向こうに、公爵家の華やかな光景が重なって見える気がした。
「あの人は、もう……」
レベッカが言葉を続けようとして途中で止める。
何を言っても今更取り返しがつかないことだけは、はっきりと理解していた。
日が少しずつ傾き始めていた。
部屋の中に差し込む光が徐々に薄れ、辺りが静かに薄暗くなっていく。
ブレッドは情報誌と報告書を机の上に静かに置いた。
レベッカは扇子を強く握りしめたままその場から動くことができずにいる。
もう土下座も涙も届かない。
エリザは自分を選んでくれる人の隣で新しい人生を歩んでいる。
それに対して自分たちは失ったものの大きさだけを抱えて、ただこの場所に立ち尽くすのみ。
窓の外の景色は何も変わらないはずなのに、二人の目にはすべてが色褪せて見えた。
ブレッドは椅子に腰を下ろし、両手で顔を覆う。
レベッカはその隣で静かに膝を折り、床に座り込んだ。
二人は言葉を失ったまま。
屋敷の外では以前のように庭師の手入れが行き届くこともなくなり、生垣は少しずつその形を崩し始めていた。
かつて華やかだったこの屋敷は今、静かにその輝きを失いつつある。
日が完全に沈み、部屋が闇に包まれても、二人は灯りを点けることさえ思いつかないでいた。
その夜、イサベルの部屋でも明かりが灯ることはなかった。
アルテア家の窮状が決定的になって以来、彼女は沈黙を続けている。
かつて「弱さを武器にしなさい」と、娘に言い聞かせていたあの声は、今はもうどこにも聞こえてこない。
先日、レベッカが母の部屋を訪ねたときイサベルは、ローレ家に伝わる宝石を手にしたまま、窓辺にただ黙って座っていた。
「母様……」
声をかけても彼女はしばらくの間、振り返らなかった。
やがて小さく独り言のように呟いた言葉を、レベッカは今も忘れられずにいた。
「私は、間違っていたのね……あなたに、あんなことを言うべきではなかった」
それだけを言うと、イサベルは宝石を静かに引き出しへとしまい、それ以上多くを語ることはなかった。
追い詰められた末の、精一杯の計算だったはずだ。
それでも、こうして現実にアルテア家が音を立てて崩れていく様を目にすると、娘を利用し巻き込んでしまったという自覚が、今になって彼女の中に大きな影を落としているようだった。
☆
その日は朝から雲一つない晴天だった。
エリザはいつもより早くに目を覚まし、窓の外に広がる青空をしばらくの間静かに眺めていた。
婚約発表から数週間が経ち、屋敷の中にも日々の落ち着きが戻り始めている。
改革の第二段階も順調に進み、以前のような緊張感は少しずつ和らいでいた。
朝食を終えた後、アレックスが珍しく仕事の話とは違う調子でエリザに声をかける。
「少し、出かけないか」
「どちらへ?」
「丘の上だ。天気がいい」
その誘いにエリザは素直に頷く。
二人は馬に乗り、領地を見渡せる丘へと向かった。
道中、風が心地よく頬を撫で、道沿いに咲く小さな花々が揺れているのが見える。
丘の頂に着くと、そこにはこれまで見たことのないほど広い景色が広がっていた。
眼下には改革が進む村々と整備された道路が静かに続いている。
畑では農夫たちが収穫の準備を進めている姿が見えた。
エリザは馬を降り、風になびく髪をそっと押さえながらその景色を見つめている。
「思い出すか」
隣に立ったアレックスが低く問いかけた。
エリザは小さく頷いた。
過去の記憶が風に運ばれるように静かに蘇ってくる。
アルテア家の執務室で一人帳簿を整理していた夜のこと。
社交界で後回しにされ、微笑みを浮かべたまま席を外した夜会のこと。
「優秀だから」「君だけはわかってくれ」と繰り返し告げられてきたあの日々のこと。
そして静かに婚約を返上し、あの屋敷を去ったあの決断のこと。
それらすべてが今は遠い出来事のように感じられた。
「あのときは、本当に……一人でした」
エリザは初めて素直にそう認める。
これまでその事実を誰かに正直に語ることはほとんどなかった。
だが今こうして風の中で、彼女は自分の過去を初めて静かに受け入れることができていた。
アレックスは何も言わない。
ただ彼女の言葉を静かに受け止めているようだった。
しばらくの沈黙の後、彼はそっとエリザの手を握る。
温かく確かな感触。
エリザはその手のぬくもりに驚くほど自然に、心が落ち着いていくのを感じていた。
アレックスは真横から彼女の目を見つめ、静かに告げる。
「もう君を一人には、させない」
短い言葉だったが、その分、迷いのない声だった。
これまで誰も彼女にこの言葉をかけてはくれなかった。
婚約者として隣に立つべき立場にあってもいつも都合の良いときにだけ必要とされてきた。
誰かに「一人にしない」とはっきり約束されたことはこれまで一度もない。
胸の奥にこれまで長く留まり続けていた最後の重みが静かに溶けていくのを彼女は感じた。
「……ありがとうございます」
エリザはゆっくりと彼の手に力を込める。
風が丘を渡り、二人の間を優しく通り抜けていった。
眼下の景色が日の光を受けて明るく輝いている。
彼女は右手で懐から小さな銀の懐中時計を取り出した。
蓋を開き、静かに時を刻む針を見つめる。
これまで不安なとき、決断のとき、幾度となくこの時計に触れてきた。
それは彼女にとって時間を正確に管理する道具であると同時に、一人で耐え抜くための心の支えでもあった。
だが今、彼女はこれまでとは違う気持ちでその文字盤を見つめている。
もう誰かの都合に合わせるための時間ではない。
エリザは懐中時計の蓋を、いつもよりゆっくりと閉じた。
これまで幾度となく繰り返してきた仕草だったが、今日という日を境に、その意味は静かに変わっていく。
誰かの都合を確かめるための時計ではない。
これからは、ただ自分の時間を刻むためだけの時計になる。
「行こうか」
アレックスがそう声をかける。
エリザは頷き、彼と手を繋いだまま丘を下り始めた。
道すがら二人はこれといった会話を交わすことはない。
それでもその沈黙はこれまでのどんな言葉よりも確かな安心感に満ちていた。
風が吹き、遠くで鳥が鳴き、丘の下にはこれから広がっていくはずの穏やかな日々が待っている。
エリザの唇に心からの穏やかな笑みが浮かんだ。
我慢し続けた日々は終わった。
そう心の中で確かめながら、彼女は前を向いて歩き続ける。
一人ではない人生を、私は自分で選んだ。
丘を下りきったところで馬たちが二人を待っていた。
アレックスが先に馬に乗り、それからエリザへと手を差し伸べる。
彼女はその手を取り馬上へと導かれた。
二人は並んで屋敷への道をゆっくりと戻っていく。
風が優しく吹き抜け、領地の景色が明るく広がっている。
エリザは隣を歩む人の存在を確かに感じながら、確かな足取りで新しい一歩を踏み出していった。




