第8話:名前のない存在
『存在固定処理、開始』
その表示が出た瞬間、部屋の空気が変わった。
さっきまで肌にまとわりついていた圧迫感が、少しだけ薄れる。
代わりに、妙な静けさが落ちてきた。
モニターの赤い警告も止まっている。
誰も喋らなかった。
いや、喋れなかったのかもしれない。
白衣の女は画面を見つめたまま固まっている。
男も眉を寄せていた。
そして、“もう一人の俺”だけが、信じられないものを見る顔をしていた。
「……固定された?」
掠れた声だった。
「そんなこと、あり得ない」
俺は自分の手を見る。
さっきまで曖昧だった輪郭が、少し戻っていた。
指先の感覚もある。
呼吸もできる。
まだ、ここにいる。
『名称未登録』
モニターにはその文字が点滅している。
白衣の女が小さく呟いた。
「名前を持たないまま、存在が固定されてる……」
その声には、初めて恐怖が混じっていた。
「前例がない」
“もう一人の俺”がゆっくりこちらを見る。
その目から、余裕が消えていた。
「……なんで残れる」
問いかけというより、独り言に近かった。
「お前は“残響”だぞ」
「本来なら、自我なんて維持できない」
知らない。
そんなこと言われても分からない。
だけど、一つだけ確かなことがある。
俺は消えたくない。
その感覚だけが、異様にはっきりしていた。
「俺は……」
声が喉に引っかかる。
怖い。
自分が何なのか分からない。
偽物かもしれない。
本当は存在しちゃいけないのかもしれない。
それでも。
「消えたく、ない」
言葉にした瞬間だった。
モニターが再び反応する。
『自己保存欲求を確認』
『個体維持率、上昇』
『名称未登録個体、安定化』
白衣の女が息を呑む。
「感情で固定されてる……?」
男が低く呟く。
「あり得ない。存在固定は“名前”で行われるはずだ」
そのとき。
“もう一人の俺”が、小さく笑った。
乾いた笑いだった。
「……そうか」
視線がぶつかる。
その瞬間、妙な違和感が走った。
初めてだ。
あいつを見て、“自分じゃない”と思った。
同じ顔のはずなのに。
何かが決定的に違う。
「お前」
俺が呟く。
「本当に、俺なのか?」
“もう一人の俺”は答えなかった。
代わりに、静かに目を伏せる。
その沈黙が、何より不自然だった。
白衣の女がモニターを操作する。
次々に画面が切り替わる。
大量の記録。
削除ログ。
同期記録。
識別履歴。
その中の一つで、女の指が止まった。
「……これ」
空気が変わる。
男が画面を覗き込み、顔色を変えた。
「どうした」
女は、ゆっくりこちらを見た。
「識別ログが逆転してる」
嫌な沈黙。
「逆転……?」
女の声は震えていた。
「オリジナル側の記録が、一部しか存在してない」
「でも、この人は違う」
そう言って、俺を見る。
「記録の欠損量が異常に少ない」
理解できない。
すると、“もう一人の俺”が舌打ちした。
初めて感情を露わにした。
「……見つかったか」
その一言で、背筋が冷える。
白衣の女がゆっくり言った。
「あなた、本当に“オリジナル”なんですか?」
沈黙。
長い沈黙だった。
やがて、“もう一人の俺”は観念したように目を閉じる。
「……半分だけ違う」
「俺は、“オリジナルをコピーして作られた人格”だ」
思考が止まる。
空気が、急に遠くなる。
「本来のオリジナルは、もう存在しない」
その瞬間。
俺の中で、何かが繋がった。
だからだ。
だから、あいつには“完成された感じ”があった。
作られた人格だから。
整いすぎていた。
逆に俺は違う。
欠けていて、曖昧で、不安定だ。
でも——
“生きている感覚”だけは、確かにあった。
モニターが大きく点滅する。
『警告』
『オリジナル消失を確認』
『管理システム、再構築モードへ移行』
白衣の女が青ざめる。
男が低く呟いた。
「まずい……」
「世界の整合性が崩れる」
その瞬間、施設全体の照明が落ちた。
闇の中で、どこか遠くからノイズみたいな声が聞こえる。
『名前を、返して』
知らない声だった。
なのに、なぜか——
涙が出そうになるほど懐かしかった。




