第9話:世界から消えた名前
照明が落ちた瞬間、施設の奥で何かが軋む音がした。
金属が歪むような、不快な音。
暗闇の中、非常灯だけがぼんやりと赤く点滅している。
その赤い光のせいで、全員の顔色が妙に悪く見えた。
『名前を、返して』
ノイズ混じりの声が、また聞こえる。
近い。
耳元で囁かれているみたいに近いのに、どこにも姿がない。
思わず周囲を見回す。
その瞬間、廊下の奥に“人影”が見えた。
一人じゃない。
何人もいる。
暗闇の中に、輪郭だけが並んでいる。
「……何だ、あれ」
声が掠れる。
白衣の女が顔を強張らせた。
「未固定個体……」
男が舌打ちする。
「こんな数、あり得ないだろ」
人影はゆっくりこちらへ歩いてくる。
足音はない。
ただ、床を滑るみたいに近づいてくる。
そして気づく。
全員、“顔が曖昧”だった。
目も口も輪郭がぼやけている。
認識しようとすると、頭が痛くなる。
『名前を返して』
『返して』
『返して』
声が重なる。
ノイズみたいに。
壊れた音声データみたいに。
胸の奥がざわつく。
怖い。
なのに、目を逸らせなかった。
“もう一人の俺”が低く呟く。
「……同期崩壊が始まってる」
「同期崩壊?」
白衣の女が早口で説明する。
「管理システムは、“名前”を基準に世界を認識してるんです」
「誰が誰なのかを固定するために」
「でもオリジナルが消えたせいで、その基準が壊れ始めてる」
意味は半分しか分からない。
だが、一つだけ理解できた。
この世界は、“名前”で現実を維持していた。
そして今、その土台が崩れている。
『識別不能個体、増加中』
モニターが勝手に起動する。
赤い文字が次々に流れていく。
『世界整合率:92%』
『89%』
『85%』
数字が、どんどん下がっていく。
そのたびに、施設の空間が少しずつ歪んだ。
壁が一瞬だけ波打つ。
時計の針が逆回転する。
遠くで誰かの笑い声が聞こえたかと思えば、次の瞬間には泣き声に変わる。
現実が、うまく固定できていない。
「……なんだよ、これ」
息が浅くなる。
白衣の女が震える声で言った。
「名前が消えるっていうのは、“存在が消える”ことじゃない」
「“世界から認識されなくなる”ってことなんです」
その言葉に、背筋が冷えた。
“消える”んじゃない。
“誰にも観測されなくなる”。
だから曖昧になる。
だから顔が崩れる。
だから——
「……あいつら」
廊下の奥の人影を見る。
「あれも、元は人間なのか」
誰も答えなかった。
沈黙だけが返ってくる。
それが答えだった。
『返して』
『わたしの名前』
一番近くの影が、こちらへ手を伸ばす。
指が長い。
異様なくらい長い。
まるで輪郭がうまく定まっていない。
その瞬間。
俺の頭の奥で、またノイズが走った。
フラッシュバック。
教室。
夕焼け。
誰かが笑っている。
『名前ってさ』
『他人に呼ばれてるうちに、“自分”になるんだって』
そこで映像が切れた。
呼吸が止まる。
思い出しかけている。
削除される前の記憶を。
すると突然、“もう一人の俺”が俺の腕を掴んだ。
「思い出すな」
異様な声だった。
焦っている。
初めて見る顔だった。
「……なんで」
「いいからやめろ!」
その瞬間。
施設全体にアラームが響く。
『警告』
『深層記憶領域、接続開始』
『最終ログへのアクセスを確認』
白衣の女が顔色を変える。
「まずい……!」
男が叫ぶ。
「止めろ! そこに触れたら——」
最後まで聞こえなかった。
頭の奥で、何かが開く感覚がした。
鍵が外れるみたいに。
そして。
知らないはずの“誰かの名前”が、
脳裏に浮かび上がる。
その瞬間。
“もう一人の俺”の表情が、絶望に変わった。




