第二十三話:根回し
ひと月半の旅は、手短に済ませる。語るほどの出来事の大半が、「歩いた」だったからである。
道標の黄色い花は、庭を出て十日目で打ち止めにした。苗が尽きたのもあるけど、そこから先は、東へ歩く人の姿がほとんどなかった。
代わりに、人が残していったものが、道端に並んでいた。
宿場の壁に、炭で書いた伝言板。『この先 水あり 昼まで』。三枚先の板は、同じ筆跡で『水なし 引き返せ』に書き換わっていた。
書き直したのだ。書き直す人は、どんな顔をしていたんだろう。
関所には、荷車を横倒しにして積んだ壁。軒先に空っぽの鳥籠がずらりと下がった宿。風が吹くたびに、軒の鍋が、かん、と鳴る。鍋は、どこの世界でも警報になるらしい。
夜営の晩、最後の見張りは僕だった。火を見ているうちに、ふと思い出す。ペトラさんは、あれから出発の朝まで、結局一度も姿を現さなかった。
……帰ったら、改めて、ちゃんと話をしなければな。
二十日目あたりから、帝国の大きさを、足の裏で理解しはじめた。丘を三つ越えて、まだ同じ領の端っこ。
地図の上だと指二本ぶんなんだがな、とカシアンがぼやく。その指二本に、三週間かかっている。縮尺を決めた人に会ったら、一発くらい殴ってやろうか。
四十一日目の昼前、地平線に、定規で引いたような線が現れた。
「山脈だな」と大男が言って、「山脈だ」とカシアンも頷いた。山脈であってほしい、という願いを込めた断定だった。山なら、迂回できるからだ。
壁だった。
近づくほどに、その線は空へ立ち上がっていく。高さ五十メートル。端は、左にも右にも見えない。二重の城壁が首都をぐるりと囲んで、全周九十キロ。環状の大路が七つ。かつての人口は、二百万。
……ゲルトさんの受け売りだけど、千人で大騒ぎしている庭師には、桁を数えるだけで目眩がする。
荷馬車と、もう一人の冒険者は、城壁の外の廃砦に隠してきた。「一番楽な役だ」と本人は言ったけど、たぶん一番怖い役だと思う。
正門は、開いていた。いや、閉めるのを諦めたのだろう。門の内側には、荷車と箪笥と寺の鐘を積んだ壁が、三重に組んである。人を入れないための壁だ。そのてっぺんに、鍋が吊るしてあった。風が吹く。かん。
「……うちの庭の発明じゃなかったのか、鍋」
「みんな、考えることは同じなのね」
フィオナが笑った。声が、ほんの少しだけ潰れていた。
正門から王城まで、大通りはまっすぐ一本。馬でも半日かかる。幅は馬車が十二台並べるほどあって、両側に五階建て、六階建ての建物が、延々と続いている。看板、噴水、劇場の列柱、数えきれない窓。そのどれもが、静かだった。
音が、ない。二百万人ぶんの街の音が、そっくり抜けている。蹄の音が建物に跳ね返って、ずっと遠くから返ってくる。僕らの足音が、この街でいちばん大きい。
「巣にしては、留守が多いな」とカシアン。
「留守番ならいいんだけど」
縁起でもないことを言う人だ。でも、同感だった。
広場の石柱に、紙が貼ってあった。雨でふやけているけど、読める。
『第十七区 広場の決まり』
『一、水は朝と夕。配るのは書記のマルタさん。』
『二、火は屋根の下で焚くこと。煙で見つかる。』
『三、泣くのは夜のうちに。』
『四、犬は家族。食べない。』
『五、朝になったら、全員で名前を呼ぶ。』
その下に、筆跡の違う字が、続いていた。
『六、三十七日目。まだ十一人。』
『七、四十二日目。まだいる。』
そこで終わっていた。
誰も、何も言わなかった。同じような紙を、僕らは庭の広場に貼っている。決まりの紙を書きたくなるのは、どこの人間も同じらしい。
僕は鞄から炭筆を出して、九行目を書いた。
『八、東に庭あり。席は、空いています。 ユーリ』
「……読む人、いるかな」とフィオナ。
「いるかもしれない。いないかもしれない。でも、貼ってない紙は、絶対に誰にも読まれないからね」
後ろで、大男が派手に鼻をすすった。
「……埃だ」
「ええ、埃ですね」とカシアンが、見ないふりをして言った。男の泣き顔に気づかないのは、冒険者の礼儀らしい。泣上戸の冒険者の男というのもなかなかいないと思うが。
感傷は、一分だけ。庭の数字は、出発のとき六百二十一。千まで、あと三百七十九。往復の日数を引くと、逆算して首都にいられるのは、せいぜい三日だ。
目指すのは、王城の地下、帝室種苗庫。大通りを堂々と歩いていくのは論外。そこで、下水道だ。
「……下水」とカシアンが、とても嫌そうに言った。
「種の倉の大敵は湿気です。地下施設で三百年も種を保たせたなら、水を抜く暗渠が、たいてい脇を通ってる。暗渠排水は、造園の基本なので」
「基本が、ここまで人を追い詰めるとはな」
「基本ですから」
大運河の排水口は、鉄格子で塞がっていた。百年は開いていないであろう格子を、柄の輪を絞って、炎で焼き切る。灯りがないので、ノズルの先を蝋燭ほどの火にして掲げた。世界一危険な散水ノズルの、世界一平和な使い道である。
中は、広かった。広すぎた。馬車が走れそうな水路の両脇に石の歩道があって、天井は高く、声が反響して返ってくる。
そして、匂い。
「……ほう」
「ユーリ。今、いい匂いって言った?」
「言ってない」
「鼻が、動いてる」
「動いてない」
「動いているわよ」
ああ動いているとも。それがなんだと言うのかね。
帳簿に数字が並んだ。魔気、九%。意外と低い。何十年分とも言えない汚泥が、ここに溜まって、ゆっくり、見事に熟れていた。黒くて、ぬくくて、よく発酵している。詰まる所堆肥となる物である。庭師の目が、勝手に輝いた。
持ち帰りたい。ちょうど堆肥が足りなくて困っているんだ。荷馬車の荷物を全部降ろして、これに替えたい。
……いや
替えたらハンスに殺される。人生でいちばん悔しい決断だった。
「俺は今、人生で最も高貴でない任務に就いている」とカシアン。
「俺、飯炊き係をやれって聞いて来たんだが」と大男。
「ここで、食べ物の話はやめてください」
そんなやりとりをしながら一時間ほど歩いたところで、フィオナの足が遅れた。左手の親指が、拳の中に隠れている。
「親指」
「……ばれてた」
彼女は、観念したように笑った。
「魔力の川が見えなくなった時霧がかかったみたいって言ったでしょう。この街に入ってからその霧が、ずっと一方向に引かれてるの。目の奥を細い糸で、真下に」
「真下」
「近づくほど、強くなる。気持ち悪いけど、行き先が分かるのは、ちょっと助かるわ」
前なら、黙って耐えていた人だ。言ってくれるようになった。それが、少し嬉しい。
「引き返す?」
「行く。席は、置いていかれる場所じゃなくて、一緒に座る場所、でしょう? それに川を見る力も、戻ってくるかも」
……自分の台詞に、また足を踏まれた。この人、踏む精度が上がってないか。
———
同時刻、旧王城、北塔。
「受糸官殿! 閣下より、追加のご命令であります!」
ザイが、敬礼のまま固まっている。この子は、敬礼の解き方を教わっていないのかもしれない。
「……庭の件ね」
「『庭師の一行を、通せ。手出しは無用。地下へ入れよ』とのことです!」
「通せ?」
聞き返した声が、思ったより高かった。
「地下って、何があるの。水門と、下水と、あとは」
「自分は存じません! であります!」
「存じてたら、そっちのほうが怖いわよ」
机の隅の鉢に目をやる。球根は、今朝も、うんともすんとも言わない。
「……通せ、ですって」
話しかけてみた。芽は、返事をしなかった。
———
下水道の突き当たりで、水の音が変わった。ざあ、が、ごう、になる。
そこは、聖堂みたいな空洞だった。天井が見えない。七本の大水路が壁のあちこちから突き出して、中央の巨大な石の門へ流れ込んでいる。大水門。幅は五十メートル。分厚い鉄と石の扉は、固く閉ざされていた。
その前に、一本の樹が立っていた。
樹というより、森の一部みたいな樹だった。幹は、僕ら四人が手を繋いでも回りきらない。その根が、床の石をめくって、八本、門の石組みに抱きつくように食い込んでいる。
根のあいだに、鉄の杭が打ってあった。刻印は『水門守 第四班 最後の杭』。人の手の仕事だ。半年前、誰かがここで、最後まで門を守ったのか。
足元には、魔族の戦槌が三本、転がっていた。柄が焦げている。根を焼こうとして、焼ききれなかった跡だ。
「魔族が、破れなかった扉か」とカシアン。「なら、種の倉は無事かもしれない」
「無事じゃなかったら、僕が泣きます」
僕は樹の前に進み出て、幹を三回、こん、こん、こん、と叩いた。
「失礼しまーす。庭師です。通ります」
「……何してるんだ、お前」
「現場に入るときの挨拶です」
一瞬、樹が止まった気がした。葉が、さわ、と鳴る。
通じた、と思った。次の瞬間、根が飛んできた。
なんだこの生き物は。帝国はこんなものまで所持していたんだな。
なぜ攻撃されたのかって?
僕らは頭から足まで、灰と下水まみれ。魔気の匂いなら、魔族と区別がつくはずもない。挨拶は受け取ってもらえたがご用件は、却下されたわけだ。
「散れ!」
根が薙ぐ。大男が、両腕で受けた。止めた。石の床に、足が二十センチめり込む。
「俺は! 今回! 飯炊き係の! はずだったよな!?」
「飯の話は、あとで!」
カシアンの剣が根を断った。白い汁が噴いて、そして、ぬるり、と新しい根が生えてくる。三秒。三秒で、元通りだ。
僕も輪を緩めて、炎の水やりを浴びせた。焼ける。焼けた根の下から、もう次が顔を出す。切るたびに、七本の水路から魔力が補給されて、百に戻ってしまう。
底なしのバケツを、柄杓で空にしようとしてるようなものだ。……いや、待てよ、これ、毎年夏に生垣でやらされるやつじゃないか。切るから生える。焼くから伸びる。造園屋の永遠の悪夢。
「ユーリ、聞いて」
壁際で、フィオナが目を閉じていた。耳で、根の動きを追っている。耳を澄ます時に目が勝手に閉じるのはこういう時も同じなんだな。
「拍があるの。潮の満ち引きみたいな。七本の流れが順番に押し寄せて、引く。引くとき、根が一瞬だけ細くなる。三つ数えるくらいの間」
三つ数える、隙間。
同時に、頭のどこかで、前世の記憶がぱちんと弾けた。生垣じゃない。これは大木だ。大木を相手にするときの、庭師の手順が、あったはずだ。
「根回し」
「何だって?」
「大木を動かすとき、本番の一年前に、根をぐるりと一周切っておくんです。切られた木は慌てて新しい細根を出して、『ここに根を張り直そう』と考える。つまり前もって、『この場所に居る理由』を奪っておく。そうすれば、本番で掘り上げても枯れない」
「つまり?」
「事前交渉です」
ちなみに、政治の「根回し」は、この技の名前を借りたものらしい。本家は、こっちだ。
「八本の主根に、全部、杭を打ちます。オズさん特製の黒鋼を二十本持ってきました。使うのは八本。残りは、僕の打ち損じ用です。全部打ち終わったら、杭と杭のあいだに、僕の炎を一回だけ通す。切るんじゃなくて、杭を伝って、庭の土の味を根に教える。『君、もうここの子じゃないよ。引っ越すよ』って」
「樹を、騙すのか」
「得意です。かかしの実績があるので」
それに切った場所は三秒で戻るが、主根そのものに杭を打てば話は別だ。
作戦と言えば聞こえはいいけど、要は杭を打つだけとなる。三つ数える隙間に、一本ずつ。ただし根は、三つ数えたあと、容赦なく薙いでくる。
「三、二、一、細い! 右の三番、いま!」
フィオナの声に合わせて、大男が杭を叩き込む。ガン。一本目。
「次、左奥、二番!」
カシアンが走る。杭を刺す。根が掠めて、優雅な外套が裂けた。
「これは、気に入っていたのに!」
「繕うのはあとで! 三、二、一……!」
六本。七本。息が上がる。額の汗が目に入る。
最後の一本は、樹の真裏。八本目の根。回り込む時間が、ない。
「僕が行く」
「だめ」
「他に誰が」
「違うわ。行ってもいい。でも、三秒を、私が伝えてからね」
彼女の声が、凛としていた。
「三、二、一……今!」
走った。足が、勝手に動いた。根が背中を掠めて、風圧で転びかける。
「飯炊き係、舐めんなああ!」
大男が、頭から突っ込んできた。八本目の根に体ごとぶつかって、抱え込む。熊が、樹と相撲を取っている。
「ユーリ、いまだ、早く打て!」
石の隙間に、杭を叩き込んだ。ガン。八本、全部。
後ろへ跳んで、輪を最後まで絞る。炎の雨が、細く、細く、糸になる。
「頼む。ここだけ、お願いします」
撃った。
糸みたいな炎が、杭から杭へ跳ねた。一本目、二本目、三本目。八つの杭が順番に赤く光って、輪になる。八本の主根が、同時に、ふるり、と震えた。
そして、力が抜けた。
葉が一斉に落ちる。ざあ、と雨みたいな音がした。根がほどけて、ゆっくり床に降りていく。
樹が、ため息をついたように聞こえた。三百年、立ちっぱなしだったのだ。
「お疲れさまでした」
もう一度、幹を叩いた。返事はなかった。それでよかった。
門が、ごう、と鳴った。
水門は、横ではなく上へ開く構造だった。ゆっくり、せり上がっていく。隙間から水が流れ始める。そしてそれは、魔気の流れそのものであった。おそらく首都の真ん中の地下深くには魔気溜まりがある。
「ユーリ」
フィオナが、一歩、前に出ていた。
「あの向こうに、糸の根っこがある。私の目を引いてるもの、全部、あっちに繋がってる」
「待った。流れが速すぎる。それに魔気の流れに晒されたからと言って川が見えるようになるかはわからないよ」
「だから、立つの」
「危ない」
「ユーリの湖が、あるでしょう。足りないもの同士」
……ずるい、と言いかけて飲み込んだ。それは彼女の台詞だ。
「分かった。僕が排水口になる。洪水は、逃げ道があれば、ただの水やりだからね」
「ユーリが言うと、本当に水やりに聞こえるから不思議ね」
彼女が笑った。僕の手に、掌が重なる。冷たくなかった。
魔気が、ホールを満たした。これが灰のような汚染された魔気だったら即死だっただろう。
熱くも冷たくもない。ただ、圧倒的な量だ。僕は湖を、足元から石の床へ、全部流し出した。水路が一本、増える。洪水の逃げ道ができた。川の太さなら、僕の湖も負けてない。
「あっ、あ、あ……っ!」
フィオナが悲鳴を上げた。僕は手を離さなかった。
霧が、剥がれていく。目の奥から、一枚、また一枚。薄い膜が、流れに乗って、ふわりと運ばれていく。その端から細い糸が一本、天井のほうへ伸びて、引かれて、引かれて——
ぷつん。
糸は、逃げるように、上へ戻っていった。
静かだった。光が、ゆっくり引いていく。
「……見える」
フィオナの声は、ひどく小さかった。
「全部、見える。ユーリ、これ……」
開いた緑の瞳が、ちゃんと焦点を結んでいる。ホールの天井を、壁を、その向こうを、見ている。
世界が、一つ増えた。今度は、僕の中じゃなくて、彼女の目の中で。
「首都の下に、川が、木みたいに広がってるの。七本の大河が根っこで、枝が街じゅうに伸びて……この街は、まるごと一本の木よ。それでね、その枝の先に、小さな灯りが、いっぱい」
「灯り?」
「残ってるの。人が最後に立っていた場所。扉の裏、屋根の下、井戸のそば。足跡みたいに、星みたいに、点々と。……数えきれない」
彼女の目から、ぽろぽろと涙が落ちた。
「みんな、ここで、持ちこたえようとしたのね」
広場の紙が、頭に浮かんだ。『まだ十一人』。『まだいる』。八行目は、誰かが読んでくれるだろうか。
そうしてしばらく立ち尽くしていると、「お待たせ、ユーリ」と彼女は涙をぬぐって、にっと笑った。
「私の目で、翻訳する番ね。手帳に書いてあるのよ。『ユーリの翻訳は、下手』って」
「訂正を希望します」
「『下手だけど、愛情はあった』に、直しておくわ」
大男が、また鼻をすすった。カシアンが、「埃だな」と言った。二回目だ。
そのとき、フィオナの笑顔が、止まった。
「……ユーリ。上」
彼女は天井を見上げていた。川の地図の、さらに上。石と土と、王城の幾重もの床の、ずっと上を。
「空白が、あるの。丘にあったのと、同じ形の。……この、真上に」
帳簿の端を、上へ向けた。ゼロですらない、何もない、穴。確かに、あった。二つ目。
「私の目に貼ってあった膜の、反対の端は、あそこだった。丘の人は、窓だったのよ。ずっと、見てたのね。私たちが、ここまで来るのを」
ここは巣だ。出発前に自分で言った台詞が、今さら、背中に刺さる。
空白が、動いた。
さっきまで動かなかったものが、座っていた席から、立ち上がったのだ。
急ぐ様子は、少しもなかった。石の階段を、一段ずつ、降りてくる。
柄尻で、鈴が、りん、と鳴った。
迷子には、ならない。でも、今度ばかりは、迷子のふりをする余裕もなさそうだった。




