【第3話】檻の甘みと、侵食されていく名前
3話目です。最終章4話は明日更新予定です。
あの日以来、先生は私に何も聞かなかった。日記のことも、シャツのことも。
まるで最初からなかったことのように、二人とも口をつぐんだ。
けれど、何かが変わったことは明らかだった。
あの部屋には鍵がかからなくなった。
先生が私を見る目の中に、以前にはなかった熱が混じるようになった。
夕食の席で、紅茶を淹れる手元を、先生じっと見つめていることがあった。
あの日、私が偶然にも――いや、偶然ではなく、日記の中で読んだ通りに――ミルクを先に注いだときだった。
先生の視線が明らかに揺れた。
その揺れを、私は見逃さなかった。
次の日から、私は意図的に日記の記述をなぞるようになった。
蒼が好んだという淹れ方で紅茶を出し、蒼が使っていたという古い万年筆を、机の上にさりげなく置いた。
蒼の筆跡を真似て、買い出しのメモを書いた。
罪悪感がなかったと言えば嘘になる。
けれど、それよりも強い衝動があった。
先生の目が、私を通り越して蒼を見ているとしても構わない。
その視線の強さそのものが、欲しかった。
先生が纏う空気が、ほんの少しでも和らぐなら。
先生の肩から、あの張り詰めた孤独が、ほんの少しでも抜け落ちるなら。
私は、先生のために変わっているのだと、自分に言い聞かせていた。
ある夜、先生が珍しく自分から話しかけてきた。
「その万年筆、どこで」
「引き出しの奥にあったので」
嘘だった。あの部屋から持ち出したものだった。訂正はしなかった。
先生はしばらく万年筆を見つめ、それから静かに笑った。
その笑みは、これまで見たどの表情とも違っていた。
警戒も、怒りも、痛みもない。
ただ、長く渇いていた何かが、わずかに潤ったような笑み。
その笑顔を見た瞬間、私は理解した。
これだ。私が欲しかったのは、これだったのだ。
先生の孤独を溶かせるなら、私は私でなくてもいい。
そう思う自分に驚きながらも、その驚きすら、日を追うごとに薄くなっていった。
その頃から、先生の態度は目に見えて変わっていった。
以前は週に一度ほど、画材の買い出しを兼ねて街に出ることを許されていたが、先生は「送り迎えする」と言って、一人で出かけることを許さなくなった。
友人からの手紙が届くと、先生は差出人を確かめてから、ようやく私に渡すようになった。
理由を尋ねても、「心配なだけだ」と静かに返されるだけで、それ以上は取り合ってもらえなかった。
息苦しさがなかったわけではない。
けれど、その息苦しさの分だけ、先生の視線が私だけに注がれているという事実が、抗いがたい甘さを伴っていた。
先生は以前にも増して、私の部屋を訪れるようになった。
何をするでもなく、ただ隣に座り、私の髪や指先に触れる。
まるで、私がここにいることを、繰り返し確かめずにはいられないというように。
「どこにも、行かないでくれ」
ある夜、先生はそう呟いた。
その声には、懇願とも、命令とも取れる響きがあった。
「行きません」と私は答えた。
行く場所など、もうどこにもないように思えたからだ。
先生は満足そうに目を閉じ、私を強く抱き寄せた。
その腕の強さに、痛みに近い圧迫を感じることもあった。
けれど私は、その痛みさえも、先生が私を手放すまいとしている証だと思うと、拒む気になれなかった。
先生の愛し方は、日を追うごとに、静かでありながら、より深く、より逃げ場のないものになっていった。
それは庇護であり、同時に、檻でもあった。
私はその檻を、いつしか自分から望むようになっていた。
先生は、私が自分で持ってきた服を、いつの間にか処分していた。
「もう似合わないだろう」とだけ言って、代わりに用意されていたのは、色もデザインも、あの部屋のクローゼットにあったものとよく似た服だった。
私はそれに、何の疑問も抱かなかった。
ある日、先生は何も言わずに、私の荷物をあの部屋へと運んでいた。
かつて足を踏み入れることさえ禁じられていた部屋に、今は当たり前のように自分の布団が敷かれている。
抗う理由を、私はもう持ち合わせていなかった。
食卓に並ぶ料理も、少しずつ変わっていった。
私が苦手だと言ったこともない食材が、一切出されなくなった。
後になって、それが日記に記されていた蒼の嫌いなものと一致することに気づいたが、その頃にはもう、驚きすら覚えなかった。
給金は、先生が管理するようになった。「必要なものは、言ってくれれば何でも買ってくる」というのが理由だった。
自分の財布を持たなくなったことに、不便さよりも、むしろ奇妙な安心感を覚えている自分がいた。
かつて文通をしていた郷里の友人に、返事を書こうとしたことがあった。
便箋を用意している最中に先生が部屋に入ってきて、その用件を知ると、しばらく黙り込んだ。
その夜、先生は珍しく苛立った声で「その人は、そんなに大事なのか」と尋ねてきた。
私は結局、その手紙を書かなかった。
夜は二人で眠るようになった。
先生は必ず私を自分の腕の中に抱き込んでから眠った。
寝返りを打とうとすると、無意識のうちに、その腕がわずかに強くなるのが分かった。
まるで、眠っている間にさえ、私がどこかへ消えてしまうことを恐れているかのようだった。
私は少しずつ、蒼の言葉遣いを取り入れるようになった。
蒼が日記の中でよく使っていた語尾、間の取り方。
最初はぎこちなく、意識的に選んでいたそれらが、ある時期を境に、選ぶ前に口から出てくるようになった。
いつからだろう。
その問いに答えられなくなったのが、いつだったのかも、もう思い出せない。
「――蒼」
その夜、先生は初めてその名前で私を呼んだ。
私の名前ではない。
けれど、驚くほど自然に、その音は私の中に落ちてきた。
まるで、ずっと自分がそう呼ばれるのを待っていたかのように。
その名を口にした先生の目は、それまで見たどの目とも違っていた。
理性の膜が一枚剥がれ落ちたような、粘つくほどに熱を帯びた眼差しだった。
私を見ているようで、私を通して、もっと奥にある何かを貪るように見つめている――そんな視線だった。
訂正しなければ、と思う自分と、このまま黙っていたい自分がいた。
後者が勝った。
先生は私の髪に触れながら、独り言のように続けた。
「戻ってきてくれたんだな」
私は戻ってなどいない。
私はただの弟子で、先生の描く絵のモデルで、蒼という人間では――
そう思う端から、その否定の言葉自体が、なぜか自分のものではないような気がしてくる。
「その名前で」と、気づけば私は言っていた。
「これからも、その名前で呼んでください」
言った瞬間、喉の奥が微かに震えた。
それは恐怖だったのか、あるいは長く求め続けていたものが満たされた震えだったのか、私自身にも判別できなかった。
先生が私を見る目には、これまでにない安堵があった。
その安堵を見てしまうと、もう後戻りはできない気がした。
けれどその安堵の奥には、もっと生々しい熱もあった。
ふと顔を上げると、先生の視線が私に注がれていることが増えた。
それは無邪気な観察ではなく、輪郭をなぞり、記憶と重ね合わせるような、執拗な眼差しだった。
――蒼は、寒がりだった。
不意に、そんな記憶が浮かんだ。
私は寒がりではない。むしろ夏は苦手でも冬は好きなほうだ。
なのに、その記憶は確かな手触りを持って、まるで自分自身の体験のように、私の中にあった。
私は誰の記憶を、生きているのだろう。




