【第2話】開かずの部屋と、萌葱色の嘘
2話目となります。3話は明日投稿予定です。
その部屋の前を通るたび、先生は必ず足を速めた。
二階の一番奥、廊下の突き当たり。
ドアには鍵がかかっていて、私が来た初日、先生は静かに、しかしはっきりと言った。
「そこには入らないでほしい」
理由は聞かなかった。聞いてはいけない気がした。
その日、先生は珍しく画材を買いに街まで出かけていた。
夕方までは戻らないと言っていた。家には私一人だった。
掃除の途中、雑巾を洗おうと二階の水場に向かったとき、私はその部屋の前で足を止めた。
ドアが、わずかに開いていた。
鍵をかけ忘れたのか、それとも――そう思った瞬間にはもう、私は手をかけていた。
中は、時間が止まっていた。
ベッドは丁寧に整えられ、クローゼットには季節外れのコートまでが、まるで持ち主が今夜にも帰ってくるかのように吊るされていた。
学習机の上には、読みかけの本が伏せて置かれ、埃だけが数年分、静かに積もっていた。
机の引き出しに、日記帳があった。
表紙の右下に、細く几帳面な筆跡で「蒼」と記されている。
――蒼。
あの夜、階下から漏れ聞こえた声と、同じ響きだった。
心臓が激しく鳴った。
開けてはいけない。頭の片隅でそう思う自分がいた。
けれど手はもう表紙にかかっていて、気づけば私は床に座り込み、最初のページを読んでいた。
”四月十二日 晴れ。先生が今日、初めて絵を見せてくれた。まだ下手だと言っていたけれど、私にはとても綺麗に見えた。”
ページをめくるごとに、蒼という人間の輪郭ではなく、先生という人間の輪郭が立ち上がってきた。
先生がどんな風に笑うのか。何を喜び、何に傷つくのか。
蒼の言葉を通して、私はまだ知らない先生を、少しずつ知っていく。
苦しかった。
室内に満ちる気配に、嫉妬に似た感情だと、認めるまでに時間がかかった。
この文字を書いた人間は、もういない。
それなのに、私よりずっと深く、先生の内側に触れていた。
触れることを許されていた。
最後の記述は、日付が途中で途切れていた。
”十一月三日 先生が最近、少し疲れているように見える。私が――”
その先はなかった。ページはそこで終わり、残りは白紙だった。
私は日記を閉じ、部屋を見渡した。
そこでようやく気づいた。
この部屋は、次に来る誰かのために用意されていたのではない。
先生はただ、蒼を手放せずにいるだけだった。
時間を止めることでしか、その不在に耐えられなかったのだろう。
――先生は、今も蒼を愛している。
その事実に行き着いたとき、私の中に浮かんだのは、屈辱ではなく、奇妙な羨望だった。
これほどまでに、時間が経ってもなお、誰かに想われ続けるということ。
それがどんな形の愛であれ、私はそれに焦がれた。
自分が蒼だったら、先生にこんな風に愛されていたのか。
ぼんやりと考えていた。
気づけば私は立ち上がり、クローゼットに手をかけていた。
吊るされたシャツの一枚に触れる。
萌葱色の、蒼が着ていたのだろう一着。
理性は、今すぐ引き出しを閉じて部屋を出るべきだと告げていた。
けれど指はボタンを外し、自分のシャツを脱ぎ、それに袖を通していた。
大きすぎた。肩の線も、袖の長さも、私のものではなかった。
それでも鏡の前に立つと、そこに映る自分は、少しだけ違う人間に見えた。
先生が愛した蒼に、近づいた気がした。
背後で、息を呑む音がした。
振り返らなくても分かった。玄関の音を、私は聞き逃していた。
鏡越しに、戸口に立ち尽くす先生と目が合った。
その顔には、怒りも咎める色もなかった。
ただ、何かを堪えるような、痛みに似た表情があった。
まるで、自分でも触れないようにしてきた場所を、不意に暴かれたかのような顔だった。
「すみません」と言うべきだった。けれど声が出なかった。
先生の視線が、シャツの上を――私の首筋から胸元までを、なぞるように動いていくのが分かった。
その視線に射抜かれた瞬間、私の中に生まれたのは、羞恥でも嫌悪でもなかった。
抗いようのない高揚だった。
見られている。他の誰でもなく、先生に。
たとえこの服のせいだとしても、先生の目が今、これほどまでに私に――この体に注がれている。
その事実だけで、息が浅くなった。
先生はゆっくりと部屋に入ってきて、私の前に立った。
震える手が伸びてきて、シャツの襟に触れる。
脱がせるためなのか、それとも確かめるためなのか、私には分からなかった。
「なぜ、ここに」
声は掠れていた。怒りを絞り出そうとして、失敗しているような声だった。
「鍵が、開いていたので」
嘘ではなかった。けれど、それだけが理由でないことも、私は知っていた。
先生は何も言わず、ただ長い間、私を見つめていた。
その沈黙の中で、私は悟った。
もう後戻りはできない。
先生が私の中に何を見ているのか、私はもう知ってしまった。
そしてそれを、拒む気になれない自分がいた。




