【第1話】鍵のかかった部屋と、見知らぬ名前
本作は、年の差がある師弟ふたりの、静かで歪んだ関係性を描いたお話です。
全年齢対象とはなりますが、ダークな内容であり男性の同性愛(BL・ブロマンス)の傾向を含みますので、あらかじめご承知おきください。
全4話(毎日更新予定)となります。
私はもう、自分の本名を思い出せない。
――いつからだろう。先生に愛されるなら、私はもう、それでよかった。
◆◇◆
この家に来た日、先生は私を居間に通し、茶を淹れながら言った。
「絵を教えるのは、久しぶりなんだ」
その言い方に、私は少し引っかかりを覚えた。
「以前にも、弟子を取っていらしたんですか」
先生の手が、湯呑みの縁で一瞬止まった。
「――ああ。もう何年も前のことだけど」
妙な間があり、それ以上は続かなかった。私も、それ以上は聞かなかった。
家の中を案内されながら、私はいくつかの小さな違和感を拾い集めていた。
玄関脇の傘立てに、随分と古びた男物の傘が一本、まだ置かれていたこと。
本棚の隅に、私の知らない筆致の色紙が一枚、額装もされずに立てかけてあったこと。
そして、二階の廊下の奥に、鍵のかかった部屋が一つあること。
「あの部屋は」と尋ねると、先生は歩みを止めずに答えた。
「使っていない部屋だ。入らないでほしい」
声の温度が、それまでよりわずかに低かった。
その夜、与えられた部屋のベッドで横になっていると、階下の画室から、泣くことを堪えているような苦しい声が漏れてきた。
壁越しに、くぐもって聞こえるその声は、独り言にしては妙に感情がこもっていた。
「――あおい」
聞き取れたのは、その一言だけだった。名前だということは分かったが、それが誰を指すのかは分からなかった。
私の名前ではないことだけは、確かだった。
翌朝、先生は何事もなかったかのように、私に朝食を勧めた。
「よく眠れたか」と聞かれ、「はい」と答えながら、私は昨夜のことを聞くべきかどうか迷い、結局黙っていた。
先生は、思っていたよりずっと私に優しかった。
手取り足取り、絵の基礎を教えてくれ、時折、必要以上に気遣うような視線を向けてくることもあった。
それが心地よくないと言えば嘘になる。
むしろ、その眼差しの丁寧さに、私は早々に絆されつつあった。
ただ、その優しさの奥に、何か――私にではなく、私を通して別の誰かに向けられているような、そんな気配を感じることが、ときどきあった。
考えすぎだと、自分に言い聞かせた。
この家に来たばかりで、まだ何も分かっていないのだから。
けれど、傘立てにあった古い傘のことも、額装されない色紙のことも、鍵のかかった部屋のことも、
そして昨夜聞いた「あおい」という名前のことも、私の中で静かに、消えずに残り続けていた。
それから数週間、私は先生の生活のリズムに、少しずつ馴染んでいった。
朝は先生が先に起き、庭先で煙草を一本だけ吸う。
その煙が薄れていくのを、私は台所の窓越しに眺めるのが好きだった。
日中は絵の基礎を教わり、時折、先生が自分の若い頃の失敗談を、笑いながら話してくれることがあった。
そういうとき、先生の目元に浮かぶ皺が、ひどく人間らしく見えた。
先生は、多くを語らない人だった。
けれど、絵筆を握る手や、キャンバスに向かう背中には、言葉よりも雄弁な何かが宿っていた。
私はいつしか、その背中を見ることが、一日のうちで一番好きな時間になっていた。
夕食の後、二人で縁側に座り、庭を眺めながら茶を飲むことがあった。
会話らしい会話はない。
それでも、その沈黙は気詰まりなものではなく、むしろ肌に馴染むような静けさだった。
先生の横顔を盗み見ては、なぜこの人はこんなにも一人であることに慣れているのだろう、と考えた。
そして同時に、なぜこんなにも、その孤独から目が離せないのだろう、とも。
先生が私に向ける優しさは、決して大きな身振りを伴わなかった。
ただ、私が寒がっていれば、何も言わずに膝掛けを持ってきてくれる。
筆を持つ手が疲れていれば、いつの間にか隣に湯たんぽが置かれている。
その気づき方の静かさに、私は自分でも戸惑うほど惹きつけられていった。
誰かにこんな風に、静かに見守られたことが、これまであっただろうか。
そう自問したとき、答えはいつも同じところに行き着いた。
なかった。少なくとも、これほどまでには。
思えば、私の育った家には、いつも一定の温度の低さがあった。
両親は私を憎んでいたわけではない。ただ、関心がなかった。
食卓に食事は並んでいたし、学費も滞りなく払われていた。けれど、それだけだった。
私が熱を出しても、私が何かを成し遂げても、両親の顔に浮かぶ表情はいつも同じ、当たり障りのない無関心だった。
いつしか自分には価値がないと感じるようになっていた。
だから私は、いつからか誰かに深く踏み込まれることを恐れるようになっていた。
友人と呼べる相手がいなかったわけではない。
ただ、その誰に対しても、一定の距離から先には踏み込ませなかった。
踏み込まれて、そこに何もないことを知られるのが怖かったのだと思う。
愛されるということが、どういう手触りのものなのか、私は長い間、実感として知らずにきた。
だからこそ、先生の静かな気遣いの一つ一つが、私の中で必要以上の重みを持って響いた。
膝掛け一枚、湯たんぽ一つが、これまでの人生で受け取ったどんな言葉よりも、雄弁な愛情の証のように思えた。
渇いた場所に水が落ちるように、その優しさは、私の内側にあった空洞に、抵抗もなく染み込んでいった。
だから私は、先生の一挙一動を、無意識のうちに目で追うようになっていた。
先生が浮かべるわずかな笑みの意味を、汲み取ろうとするようになっていた。
先生が纏う、あの深い孤独の正体を、いつか自分だけが知る日が来ることを、密かに願うようになっていた。
その願いが、どれほど危ういものであったか。
当時の私は、まだ知らずにいた。
◇◆◇
モデルをするために画室に呼ばれるのは、いつも夕暮れ時だった。
西日が差し込むと、先生は窓に近い椅子を指差し、そこに座るよう促す。何も言わずに。
私は言われるままに座り、先生が筆を持つのを待つ。
けれど先生の筆は、いつも途中で止まる。
その日も同じだった。
三十分ほど沈黙が続いた後、先生が微かにため息をついて立ち上がり、水を飲みに部屋を出た。
私は誘われるように、先生のいない画室でキャンバスに近づいた。
描かれていたのは、確かに私の顔だった。
頬の輪郭、耳の位置、そこまでは間違いなく私だ。
けれど目だけが違った。
私の目はもう少し垂れていて、色ももっと薄い。
キャンバスの中の目は、切れ長で、深い色をしていた。
――これは、誰の目だろう。
そう思った瞬間、廊下から足音が聞こえた。
私は反射的にキャンバスから離れたが、遅かった。
先生は戸口に立ち尽くし、私とキャンバスを交互に見ていた。
その顔に浮かんでいたのは、怒りではなく、もっと別の何か――暴かれることを恐れていた者の顔だった。
「すみません」と私は言った。
何に対する謝罪かも分からないまま。
先生は何も答えず、ただキャンバスに布をかけた。
その手つきが、あまりに丁寧で、まるで誰かの体に毛布をかけるようだった。
私はその夜、眠れなかった。
自分の目の色を、鏡の前で何度も確かめた。




