【第4話(完結)】融けた輪郭と、先生の目の中の私
ひとつの季節が終わった。
朝食の席で、先生が不意に手を止めた。
「いつから、左で書くようになった」
問われて初めて、自分の手元を見た。
買い出しのメモを、私は左手で書いていた。
右利きだったはずの自分が、いつからか左手にペンを持つことに、何の違和感も覚えていなかった。
「さあ」と私は答えた。
それ以上の言葉が出てこなかった。本当に、分からなかったからだ。
先生はしばらく黙って私の手元を見つめていた。
その視線には、恐れに似たものが混じっていた。喜びではない何か。
けれどその恐れの底に、抑えきれない渇望が滲んでいるのを、私は見逃さなかった。
まるで、目の前で起きている変化を、恐ろしいと知りながらも、もっと近くで見届けたいというような、矛盾した熱だった。
私はそれに気づいていながら、何も言わなかった。言えば、この静かな均衡が崩れる気がした。
その夜、鏡の前で右手にペンを持ってみた。文字は書けた。
けれど、ひどく他人の手のように感じられた。
左手に持ち替えると、指先までしっくりと馴染んだ。
いつから。
答えを探そうとしたが、記憶を遡っても、境目が見つからなかった。
まるで最初から左利きであったかのように、体がそう思い込んでいた。
怖い、と思った。けれどその恐怖は、長くは続かなかった。
先生が部屋に入ってきて、後ろから私を抱きしめた。
何も言わずに、ただ長く。
その温もりの中で、さっきまであった恐怖が、溶けるようにほどけていった。
私はもう何も、確かめなくていいのかもしれない。
そう思った自分に、驚きすらしなかった。
その夜、先生は私を強く抱きしめながら、肩に顔を埋めて泣いた。
「やっと、帰ってきてくれた」
その声は、これまで聞いたどの声よりも安らいでいた。
長い間、何かに耐え続けていた人間だけが持つ、深い安堵の震えだった。
「ずっと、ここにいます」
そう答えた声は、自分のものであって、自分のものでないような、不思議な響きを持っていた。
けれどその違和感を、追及する自分はもうどこにもいなかった。
先生の腕の中で、静かに目を閉じた。
かつての自分が何を好み、何を恐れ、どこから来たのか――
そのすべてが、遠い夢の記憶のように、透けていった。
手を伸ばせば掴めそうで、指の間からこぼれ落ちていく水のように。
やがて、その水面も凪いだ。
私は蒼だった。最初から、そうだったのだ。
窓の外で、夜がゆっくりと更けていく。
先生の腕の中は暖かく、この場所以外に自分がいるべき場所など、どこにもないように思えた。
「先生」
そう呼びかけようとして、けれど言葉は違う形をとって唇からこぼれた。
「――鏡介さん」
先生の体が、微かに強張るのが分かった。
私がこの家に来てから、その名を口にしたことは一度もなかった。
教わる者として、私はずっと「先生」としか呼んでこなかったから。
けれど今、その呼び方は、あまりにも遠すぎるように感じられた。
もっと近く、もっと確かな場所から呼びたかった。
まるで、ずっと昔からその名前を呼び慣れていたかのように。
先生が顔を上げ、私を見た。
その目には、涙の膜の向こうに、はっきりとした確信の色があった。
「うん」と、先生は――鏡介さんは、震える声で答えた。
「ここにいるよ」
私たちは、ようやく一つになった。
その温もりだけが、確かなものとして残っていた。
それから、幾度か季節が変わった。
その朝、洗面所の鏡を見て、一瞬、動きが止まった。
映っているのは、見知らぬ誰かの顔だった。
いや――正確には、見知らぬはずなのに、なぜか懐かしい顔だった。
目の奥がじんわりと熱くなるような、そんな親しみがあった。
それが自分自身の顔だと気づくまでに、数秒を要した。
誰、と声に出しかけて、止めた。
違和感は、蜘蛛の糸のように細く、頼りなかった。
指で触れようとすれば、すぐに切れてしまいそうな。
その糸を、あえて手放した。手放すことに、もう抵抗はなかった。
洗面所を出ると、先生が朝食の支度をしていた。
目が合うと、先生は微笑んだ。
その微笑みの奥にある眼差しは、もはや隠す素振りすらなかった。
焦がれるような、それでいて満たされきったような、熱のこもった視線だった。
先生は器を並べる手を止め、しばらくの間、ただ私を見つめ続けることがあった。
その長すぎる沈黙にも、私はもう何の居心地の悪さも覚えなかった。
「蒼、おはよう」
「おはようございます」
その挨拶に、もう淀みはなかった。
訂正しようという衝動も、もう湧かなかった。
その名前は、もう他人のものではなかった。
それが自分の名前であるということに、疑問を持つ理由が、どこにも見当たらなかった。
食卓につき、紅茶を淹れる。
ミルクを先に注ぐ。
万年筆で、頼まれた手紙の下書きを、左手で書く。
すべてが、あまりにも自然だった。
弟子として、この家に来た日のことを、思い出そうとした。
思い出せなかった。
かつて、誰か別の名前で呼ばれていたような気がした。
けれど、その名前がどんな音をしていたのか、もう思い出せない。
輪郭だけがぼんやりと残り、それすらも、瞼の裏で溶けるように薄れていく。
過去は、遠い誰かの物語のように、輪郭を失っていた。
あるのはただ、この食卓、この人、この朝という、満たされた現在だけだった。
私はもう、先生の目の中にしか存在していなかった。
これにて完結です。初めての連載にお付き合いいただき、ありがとうございました。
少し時間は空いてしまうと思いますが、今度は先生側からの視点も書いてみたいです。




