8 妖怪水浴び男
椰子は首に感じるわずかな痛みで目を覚ました。あれから筆を執り一体いつまで書き連ねたものやら。気が付けば畳の上にごろんと寝ころび、そのまま眠りについていたらしい。
完全に寝違えてしまったバキバキの身体を芋虫のようにもぞもぞと蠢かせていると、玄関の方から食事をよこせと言わんばかりに猫が爪とぎをする音がする。しばらく気が付かないふりをしていようと思っていたが、猫は椰子の些細な動きを感知したようで可愛げな鳴き声も付け加えてきた。もういい加減、知らないふりでは突き通せそうにない。
重たい身体をようやく起き上がらせ、ほとんど置物化されている冷蔵庫の中から1本だけ残っていた魚肉ソーセージを取り出して玄関へと向かった。袋を奥歯で噛みちぎりながら玄関扉を開くと、ご丁寧にお座りした猫が朝の挨拶代わりの一声をくれる。
「どうも、おはようございます」
朝にしては随分と太陽がまぶしい。不思議に思い青い空を仰ぎ見ると、煌々と照り注ぐ太陽は頭上にまで迫っていた。どうやらもう昼過ぎのようだ。
「ありゃ、こりゃ参った」
椰子は袋の中からソーセージを取り出して、律義に用意した茶碗の中へと放り込んだ。そのまま飲み水の茶碗に人差し指を突っ込むと、一寸法師が風呂でも沸かしたのかと思う程の温度と化していた。その茶碗を持ち上げ、猫とすれ違いながら玄関の前へと戻っていく。だが彼が家に入ることはなく、そのまま家の横を奥へと進んだ。
そこには充分な庭園を造れるほどの大きな庭があるのだが、お分かりの通り庭師もいない横着者の男なので雑草が生えまくり、もはやアマゾンジャングルと化している。
庭についている洗い場の蛇口をひねると、ごぼごぼと水道管の中を水が駆け上って来る音がして、吐き出されるように透明な液体が地面へと降り注いだ。受け口にバケツを置きそのまま30秒ほどじっとその様子を見つめ、ようやく右手に装備していた茶碗に水を注ぎ入れてやる。こぼさぬように恐る恐る玄関先まで戻ってくると、定位置へと茶碗を戻しに行った。
ソーセージに夢中になっている猫の隣に備えてみると、怪しむ様子もなくすぐさま飲み水にありついている。身体を冷やすほどの冷水ではないが、確実に体温よりも低い水に、嬉しそうにのどを潤していた。
椰子は出しっぱなしになっている水道の元へと、駆け足で舞い戻る。バケツから溢れ出した水はそのまま地面にしみ込んで、じわっと雨の香りを彷彿とさせた。重たいバケツをぺっぴり腰で持ち上げた椰子は、千鳥足のような歩き方で裏庭の中心部へと入っていく。
その草むらの中で突如下駄を脱ぎだした男は、さらには身に着けていた汗くさい和服も脱ぎ捨て始めた。この身なりのため多少期待したかもしれないが、どうやら下着は褌ではないらしい。しなびたトランクス一枚まで脱ぎ捨てた素っ裸で一体何をするのかと思いきや、なんと持っていたバケツを頭上へと掲げ、そのまま一息に頭から被せたのである。
ここが他に住居のない山の上で良かった。否、もしかしたら千光寺からはうっすらその情景が見えているかもしれない。ジャングルの奥地でこの奇行、もはや物の怪の類である。尾道の紙芝居に載るかもしれない。
そんなことも露知らず、水浴びをして汗を流したことに気を良くした男。裸のまま下駄を履き、脱いだ服を引っ提げて、ノコノコ家へと戻っていくのである。




