7 大福に免じて
結局、夕方になっても椰子は家に戻って来なかった。焼き立ての魚を美味しくいただいたフミは、半分残した身から綺麗に骨だけ抜き取り、猫の茶碗へと入れてやった。お湯となった飲み水も新しいものへ取り替えると、誰もいない部屋へ律義にお辞儀をして、玄関扉をぴしゃりと閉める。
夕焼けに染まる坂の道に目を細めながら、大福を抱えたフミは満足そうにこの地を去っていくのであった。
すっかり日が沈んだ頃に、この家の家主は戻って来た。恐る恐る家の玄関扉を開いてみる。そこに女性ものの靴はなく、彼女が東京に帰ってしまったのだと安堵のため息をついた。
クンクン、何やらいい香りがする。足元で猫の鳴き声がするので振り返って見ると、そこには目を輝かせた野良猫が一匹、椰子の方へ歩いてくるところであった。
「ああ、ご飯ですね。ご飯ですか。そうですね、ちょっと待ってくださいよ」
はて、家に食べられるものなどあっただろうか。そう考えながら扉を開くと、なんと猫は足元の隙間をすり抜けて、勝手に家の中へと飛び込んで行った。どうせ食べるものなど転がってはいないと、悠長に帽子を抜いでは大きな下駄箱の上にぽとりと落とす。履いていた二枚歯下駄をひっくり返しながらその場に脱ぎ捨てると、むわっとする熱気漂う室内へとゆっくり足を進めた。
「おや」
椰子が目にしたのは、一匹の焼き魚。そして一枚の原稿用紙と文鎮代わりに置かれている、一つのはっさく大福であった。夕飯ならぬ夜食にありついている野良猫を横目に大福を持ち上げると、白紙であったはずの原稿用紙を広げて見せる。窓から漏れる月明かりにうっすら浮かんできた美しい文字の羅列に、椰子は目を輝かせた。
「これは、美しい」
椰子は彼女の書いた内容など、正直どうでも良かった。彼はフミの残した美しい文字の羅列を堪能していたのである。緩やかなカーブと丁寧な跳ねのひとつひとつに、文字の美学を感じ取っていた。
汗が一つ鼻先からその用紙へとぽつりと落ちたところで、彼はその紙を机の上へとそっと戻した。そして向かうは、開きっぱなしの窓枠だ。だんだんと灯りが消えていく尾道の風景を眺めつつ、ゆっくり大福の包み紙を剥がしていく。夜でも賑やかな虫の声に混じり、ビニールが擦れる音がした。
まだ柔らかい大福の皮をひとかじりした後、いつもとは違う餡子の甘さを全身で感じる。うむ、やはり、これも美味い。
一つ、猫の鳴き声がした。
「ええ、そうですね」
窓から吹き込む夏の風を額に感じながら、にじみ出る汗で着物を濡らした。
「大福に免じて」
しばらくして椰子が振り返った時には、猫はそこにはいなかった。食べかけの魚は持ち帰ったのか、点々と食べかすが玄関先へと続いている。
「お魚に免じて、の間違いでしたね」
そう言うとようやく扇風機のスイッチを入れ、濡れた体を生ぬるい風で癒しながら筆を執った。
10日後、彼女はまたやって来る。長尾椰子。尾道に住む、孤高の小説家。
お魚 良かったら食べてください
次は十日後に 参ります
猫ちゃんの名前 教えてくださいね
小林フミ




