23 世間話
「おじゃまします、先生。持って来ましたよ」
あの電話から12時間後。早朝からフミは椰子の家にやって来た。そんなに急がなくてもと心の中で文句を言いたいところ、自分が締め切りを守っていないことが最初から問題なので口を噤んだまま彼女を迎え入れた。
「一応目は通しているのですが」
「はい」
「この作品……とっても面白いです!」
フミは目をキラキラと輝かせながら、興奮を抑えきれないように体を揺らした。世の中に出回っている有名な本はいくらでもある。多くの人が絶賛し大ベストセラーにもなる小説も、腐るほど転がっている。だが彼女はそれらには見向きもせず、ただまっすぐに自分の信じた師を追い続けているのである。乱雑に書きなぐられたこの小説の内容を、饒舌に語る女性は他にいないだろう。
「このお祭りって、この尾道で200年以上続いているものを題材としているんですよね。いやあ、ここまで来た甲斐があるってものです」
「ええ、まあ」
「先生、お祭りには参加しないのですか? お神輿なんて担いだり」
「出来ると思いますか」
「いいえ。足手まといになるので遠慮してください」
「ごもっとも」
素直な感想を受けた椰子は、自分の書いた原稿を一枚ペロリとめくってみた。相も変わらず自分でも読みにくい乱れた筆跡の後である。だがところどころで漢字や段落の訂正を入れている彼女の付箋には、美しい文字が列をなしていた。椰子は内容うんぬんよりも、彼女の人柄をそのまま落とし込めたかのような曲線美に酔いしれていた。
「ところで、先生。エアコンなんてありましたっけ」
フミの言葉に椰子は得意げに顔をあげて見せる。
「ええ、出来立てほやほやですよ」
「良かった。あまりにも暑いお部屋だから、寝ている間に三途の川まで渡って逃げたんじゃないのかって不安になっていたところです」
「縁起でもない」
その答えにフミはどことなく安心した顔をして、彼の横顔を見つめていた。椰子は額に当たる風を感じつつ、再び視界を原稿へと落とす。だが横から痛いほどに感じる熱い視線が気になり、気づかれないよう黒目だけを移動させた。椰子の右隣に座っていた彼女は、まっすぐに椰子、ではなく、椰子の向こうにあるガラス窓を眺めていたのだった。
すっかり締め切ってしまったその窓は、この家をより殺風景にさせた。絵画のような風景が飾られたこの部屋が魅力的で、ここに住んでいると言っても過言ではない。だが窓を閉め切ってしまえばここも東京も、大して変わりはしないのだ。彼女もまたそれに気が付いたのだろう。少し残念そうに首を傾けて見せる。
「やっぱり窓が開いていないと、少し寂しいですね。絵でも飾ったらどうですか」
「絵ですか」
フミの提案に椰子が一番最初に思いついたのは、やはりあの絵描きの女性のことであった。今日は何やら様子がおかしかった。椰子は原稿をめくりながらフミにとあることを問いかける。
「ところで、ここに来るまでに絵描きの女性に会いましたか」
「絵描きの女性? どんな方ですか?」
「ほら、あなたが何度かわたしのことをお尋ねした……」
「ああ、あの可愛らしいお嬢さんですね。いいえ、今日は見かけていませんよ」
「そうですか」
するとフミは突然真面目な表情をして、上半身を椰子の方へと傾けた。
「もしかしてですけど、先生」
「はい」
「可愛いからって、学生さんに手を出しちゃダメですよ」
「というと?」
「いえ、ピンと来てないならいいです」
彼女は手っ取り早くその話を切り上げると、猫缶片手に玄関の方へと向かって行ったのだった。




