22 幼子の後押し
帰宅後、エアコンの風を全身に浴びていた時である。お役御免となってしまった扇風機が拗ねたようにそっぽを向いている様子を見つめていると、今朝同様に黒電話が鳴り響いた。エアコンの冷気にあてられ気分を良くしていた椰子は、意気揚々に立ち上がりその受話器をとる。
「はい、どうも」
「見つかりました? 原稿」
まず一言目に浴びせられた言葉に、はやり出るべきではなかったと後悔しつつも素直に答える。
「いえ、ただいま風を浴びておりました」
「いいですか。一枚足りないんです」
フミは事の重大さを言い聞かせるように、現状を再び強めに言い直す。さすがの椰子も怒らせ過ぎたかと、久しぶりにシャンプーの香りが漂う頭髪をかき乱した。
「ええ。存じ上げております」
「この一ページがないと、どうにもこうにも先に進まないんですよ。書き直してくださいませんか」
「はあ。それがですね」
椰子は両手をあげる仕草の代わりに、顔で天井を仰ぎ見た。
「今朝も言いました通り、何を書いたのかさっぱり内容を覚えていないのです」
「ならば原稿をお持ちします。読み返していただければ、書いた内容を思い出していただけますから」
「そうでしょうか」
「そうですよ。この主人公は一体どこへ行ったのか。その謎を解き明かしていただかないと」
「どこでしょうね」
「こっちが聞いているんです」
椰子はしばらく無言を貫いた後、ついに自分の非を認めた。
「それは全面的に、私の責任です。分かりました。原稿を持ってきてください。ただ少し、思い出すまでに時間をいただけますか。推敲も同時進行に進めます故に」
散々彼女から逃げ回っていたマヌケな猿と同じとは思えない様子に、フミも受話器越しに感嘆の声をあげる。
「あら、どうしたんですか。先生にしては珍しく素直ですね」
「まあ少し。幼子にお尻を叩かれまして」
「セクハラですか?」
「言葉の綾です」
椰子は受話器を置くと、身体を鎮める風が吹く部屋へと舞い戻った。ほてった身体もすっかりと冷え切った頃、椰子は締め切った窓に視線を移す。いつも窓辺に飾られていた尾道の海は、今やガラス窓にてふさぎ込まれている。
椰子はその頬に受ける人工的な風を感じながら、大きく窓を開いてみせた。生暖かい空気と共に飛び込んできた野良猫に、思わず彼は床へとひっくり返る。大きなしりもちをついて腰をさすっている椰子とは相対して、猫はまるで我が物顔で机の下へ入り込み、涼しい空間に身を悶えさせているのであった。
海が見えた。造船所の光を照り返す尾道の海は、今日も穏やかに波打っている。




