20 白と黒
長尾邸に続く道はいくつかある。どの坂道を選んだとて、どこもかしこも続く先は大宝山千光寺である。銭湯から出たすぐ目の前の坂道を登っていくことも出来たのだが、椰子はあえて遠回りとなる商店街を通る道を選んだ。それははっさく大福を買うためでも、中華そばを嗜むためでもない。ましてや空っぽの財布の中を賽銭箱の前でみせしめるためでもなかった。
彼の足は、導かれるようにあの場所へと向かっていた。なぜか、いると思ったからだ。そして案の定、彼女はいた。絵描きの女性だ。今日は珍しくサングラスをして、真っ直ぐ続く石段とその先の山門を見上げている。
「色が違って見えますか」
椰子がそう声をかけながら彼女の元へやってくると、彼女は慌てた様子でかけていたサングラスを弾き飛ばした。転がったサングラスは石畳の路地裏を転がり、椰子の足元へとやって来る。特段焦る理由などないのだが、彼女は両手を大きく横に振りながら弁解してみせた。
「いえ、今は少し休憩中で」
「絵描きのあなたを貶した訳ではございません。そういう画風もあるのかと」
「ごきげんよう、先生。今日は良いお日柄で」
彼女は慌てて椰子の言葉を遮るようにして続けた。椰子は少し気がかりな彼女の様子を深く追及することはなく、足元に転がって来たサングラスを拾って彼女の手元へと差し出した。
「そうなんです。本日新たな門出でして」
口から出たでまかせの挨拶に飛び乗って来た男に、彼女はにこやかに笑ってみせた。
「あら、どちらへお行きになるのですか?」
「私はどこにも行きません。向こうからやって来たのです」
「向こうからですか」
彼女は少し首をひねった後、パンと両手を打って見せた。
「ああ、編集者のお方ですね!」
「いえ、エアコンの話です」
彼女の答案を一刀両断した言葉に一体何を考えているのかと思われるところ、彼女は高い声を山に響かせるように笑って見せた。
「あら、素敵。それは楽しみですね」
「ええ。なので早く帰らねばと……」
椰子はそこまで言ってふと彼女のキャンバスに視線を落とした。下書きを終えたであろう白いキャンバスの上を走る木炭の陰影に目を細めていると、あっという間にその世界観に引き込まれる。
何と美しいものだろう。我が家にも絵画同然の窓枠があるが、それに見劣りもしない。まだ色付けもされていないキャンバスなのに、なぜにこうも魅了されるのであろうか。だが彼は小説家。この感動をいかに文字で綴ろうか。そのことばかりが脳裏を埋めていた。
あまりにも真剣にキャンバスを見下ろす椰子に気が付いた彼女は、ふとこんな言葉を口に出す。
「先生、この絵を買ってくださいませんか」




