19 番台ババア
椰子がエアコンを堪能する数時間前のことである。エアコン業者を見送りそのまま文明の利器を味わいつくしても良かったものを、わざわざ下町へと降りて来た妖怪水浴び男。せっかくならとひと汗流すために銭湯へと向かっている最中である。風呂上りに直射日光を浴びながらあの坂道を登った日には、家にいた時よりもひどく汗をかくことであろう。いい加減、家の風呂を沸かすべきである。
檜の香りをまとったお気に入りの洗面桶を片手に商店街をフラフラ歩いている最中、彼の視線は自然とあの御旅所へと向かっていた。あの場所で出会ったバックパッカーはもういない。そして、真っ白なキャンバスを抱えた絵描きの彼女も。
もしかすると以前の場所で座っているやもしれぬ。そう思い神社へと向かう細道を覗き込んだが、そこにも、彼女の姿はなかった。そう言えば今日は平日であった。もしかしたら学校へ行っているのかもしれないと単純な答えを導き出した椰子は、後ろ髪を引かれることもなくそのまま真っ直ぐ銭湯へと向かって行った。
行きつけの銭湯においても、既に我が物顔である。手慣れた様子で靴箱の鍵をぶん捕ると、番台のおばちゃんに声をかけた。
「どうも、ご無沙汰」
「ご無沙汰してもらっちゃあ、困るんよ。毎週臭うて敵わんわ。はよ、入っといで」
これ見よがしに鼻を摘まみながら、番台の上からしっしと掃う仕草をする。だがこれもご愛敬。彼とおばちゃんの定番挨拶である。
平日の昼間から風呂に入りに来るのは常連客ばかり。服を脱ぎ捨て風呂場に向かうと、流し場の前に見慣れた顔が横一列に並んでいた。
「来たなあ、小説家」
「あい、どうも」
小さくお辞儀をしながら、この銭湯の大先輩たちに軽くお辞儀をした。
「ええね、こりゃ何か月ぶりよ。垢すってスッキリしようが」
「何ヶ月って、大げさです。かれこれ5日ぶりです」
「そりゃあ、くせえ」
オジサンたちの大きな笑い声が、風呂釜にまで響き渡った。
「いやあ、さっぱりしました」
脱衣所から出て小上がりの座敷の上、椰子はコーヒー牛乳瓶片手に扇風機の風を浴びていた。これからあの山道を登っていくのが実に億劫だ。このままここに住み着きたい。と以前申し上げたところ、番台ババアに小突き回されたので素直に帰宅する。
「また明日、来んさいよ」
「ええ、必ず」
「嘘ばあ、ゆうて」
おばちゃんは出来もしないウインクで彼を見送り、椰子は問答無用に炎天下の中へと放り出された。もはや痛みさえも感じるほどの紫外線に目をくらませながら、まっすぐに向かうは我が家の作業部屋だ。あんなにも嫌煙していた畳の上が、今では待ち遠しくてたまらない。
少し小走りな下駄の音が、木々に留まる蝉たちを黙らせるのである。




