2 しつこい女、小林フミ
「先生、いらっしゃいますか。先生。先生ったら」
その声は古びた日本家屋の中から聞こえてきた。尾道市は坂の町と呼ばれ、その名の通り坂の上にたくさんの民家が存在している。長い階段のその先には、昔ながらの家が立ち並び、多くは当時の姿そのままである。かつては手作業で行っていたものも、多くは重機を使用するようになってからは改築なんてものが随分と難しい土地柄となってしまった。しかしながらその風貌がかつての尾道を彷彿とさせ、昔ながらの建物を愛する人々によって親しまれているのである。
長尾椰子もまたその一人であった。真新しい家を購入することもなく、坂の上で朽ち果てそうになっていた家を丸々一つ購入して彼の住居とした。下宿という形で利用しても良かったところ、彼はこの家の雰囲気とそこから見える手狭な海が気に入り自分の手の内に収めたという事である。
だがそれはまた彼の居場所をはっきりと明記するものとなる訳で、編集者の彼女は月に何度も東京都からこの地へと渡って来る。
新入社員でありながら厄介者と呼ばれる彼の編集者として抜擢されたのがこの女性、小林フミである。物おじすることなくズバズバと物を言うところが気に入られ、ほとんど押し付けられるように椰子の担当を任命された。この時代に固定電話しか備えのない男との連絡は実にむつかしいもので、実際に顔を合わせ原稿をぶん捕っていくという方法以外に彼の尻を叩く方法はないのである。見た目だけでなく、原稿の提出方法までタイムスリップしたような男に、もはや打ち切っていいのでは……という声が上がる中、彼女だけはそれをさせなかった。
「いいえ、先生の書く文章は、先生にしか書けないんです」
編集者にしてはものすごく下手くそな日本語であったが、彼女のおかげで職を失わずに済んだことに少しは感謝すべきであろう。
もぬけの殻となっている家を後にしたフミは、大きく背伸びをして彼の家を出た。少し坂を上ったそこには、朱色の建物が青空に美しく映える、大宝山千光寺が聳え立っている。彼女はふとそこへと立ち寄り準備して置いた小銭をいつくか投げ込むと、必死に手を合わせ椰子の繁栄を祈るのである。
桜色の行燈と風になびく幟に導かれるようさらにその先へと進むと、巨大な岩場が見えて来る。そこは鼓岩、通称ポンポン岩と呼ばれる場所である。岩の上で石を打つと、ポンポンという音がするのだそうな。
観光客がこぞってその場で写真を撮るのはその岩が物珍しいためではなく、そこから見える尾道の風景を画角に残しておくためである。
「すみません、一枚良いですか」
フミもまた、この風景が気に入っていた。月に何度もこの地を訪れるのにも関わらず、律義にこの風景を写真に残しているのである。そこに自分もバッチリ映り込むあたり、彼女らしさがにじみ出ていると思う。
観光客の手に渡ったカメラを回収すると、フミはレンズ越しに今一度尾道の風景をぐるりと見渡した。この入り組んだ街の中に、あの男がいる。ある一点でその動きを止めたフミは、そそくさカメラを鞄の中へと戻して、足早に急な下り坂をくだり始めた。足がもつれれば顔面着地待ったなしの中を、まるで小学生が全力疾走で駆け下りるが如く風をきることを楽しむ彼女は、もはや風そのものであった。
小林フミ。彼女は10年前に長尾椰子の文章に恋した、文学少女なのである。




