17 空白の1ページ
あれから1週間後のことである。朝から固定電話が鳴りやまぬ長尾邸では、椰子が座布団を頭からかぶっている状況であった。まだまだ残暑の残る季節柄、冷房も効かぬ温室でそんなことをしては熱中症待ったなしである。大汗をかきながら必死にその音を耐え忍んでいた椰子であったが、しぶしぶ重たい腰を上げた。
ならば最初から電話など無視をして外へ出て行けば良かったものを、今日ばかりはそうはいかなかったのである。そう、ついにこの家にエアコンがやってくる! 大正時代の心持と言えど、異常気象の大敵には敵うことはなかった。現代文明に頼ることとなった男は、業者がやって来るまで律義に家を片付けその到着を待ち望んでいたのである。
そんな最中、一本の電話が鳴り響いた。この家の電話番号を知っているなど、片方の指で数えられる限りである。最初はエアコン業者かと思い電話持ち上げてみると、そこから聞こえてきたのは聞きなれた「先生」の一言であった。
「これは、これは。どうも」
椰子はそう言うと丁寧に受話器を元の位置に戻し、座布団の下に隠れ入ったという訳である。それからというもの、30秒ほど鳴り響いた黒電話は5分毎に繰り返し呼び鈴を鳴らす。いつかは諦めるだろうと高を括っていたが、相手はあのしつこい女だ。かれこれ45分間この調子なので、もうこちらからあきらめざるを得ない。あれこれ苦行を言われるであろうなと覚悟を決めて、受話器をとった。
「あら、先生。ごきげんよう」
電話越しにも勝ち誇った様子でほくそ笑んでいる彼女の顔が目に浮かぶ。
「はい、はい。それで、ご用件は」
「それで、じゃありませんよ。先生。大変なんです」
45分間も携帯電話とつきっきりだったことを言及もせず、フミは何かをめくるような音をさせながら続けた。
「先生からいただいた原稿なんですが、どうやら一枚足りないようなのです」
「よく並べましたね」
「何年、先生の文章を読んでいると思ってるんですか。ところで足りない部分なのですが」
フミはおおよそのあらすじを確認のため、椰子へと伝えた。椰子はそれを聞きながら、伸びきったあごひげをさすりながら感慨深く聞いていた。
「へえ、随分と面白いお話で」
「先生が書いたんですよ」
しっかりとツッコミを返してくれたフミに、椰子はにんまり笑顔を浮かべる。
「それで、足りない部分と言うのは」
「ええ。この主人公が祭囃子に乗って、街へ繰り出した後のところです。何度確認しても次のページから、主人公が全く出てこないんですよ。そんなことあり得ます? 全く別のお話が始まったのかと思いましたが、原稿の最初が文章の続きのようなので。他を照らし合わせても、繋がる言葉が見当たらないんです。この空白の一ページが気になって、夜も寝られないんですよ! 先生のお部屋に、残っていませんか?」
椰子は玄関の端に置かれている受話器越しに、いつもの作業部屋を覗き見た。
「あるかもしれませんし、ないかもしれません」
「そう言ってないで、探してくださいよ」
「おそらくですが、作業部屋には無いでしょうね。今朝掃除をしたばかりなので」
「そんなあ! 一番大切なところじゃないですか。じゃあ一体何があったのかだけは教えてください」
「それは、出来ない相談です」
「どうして」
椰子は一つ息を吐いて、ぽりぽり頭を掻いた。
「もう残っていないのです。私の頭の中には何も」
彼はそう言うと、受話器を置いた。




