14 幼子の幻覚
「私の絵をですか」
その言葉を聞いて、女性は驚いた顔をして彼を見上げた。
「ええ、おいくらで」
「えっと……。まだお渡しできる絵は用意できておりませんので。どんな風景がお好みですか」
「この絵ではいけませんか」
「この絵ですか」
彼女はまだ描き途中のキャンバスを見下ろし、少しだけ間を置いた後、小さく首を横に振った。
「ごめんなさい。こちらはお売りできません」
「そうですか」
「コンテストに、間に合わなくなってしまいます」
彼女が放った言葉の一つが気にかかり、椰子はあえて言葉を繰り返した。
「コンテストですか。一人の客より、コンテスト」
「ごめんなさい。気を悪くさせてしまったら」
「いえ、とんでもない。かつての私もそうでしたので」
椰子は腕を組むと、遠くへ視線を投げた。まるでかつての自分の姿を追い求めているようだ。踏切の向こうに見える石段から、若かりし頃の自分が歩いてくるように見えた。踏切が鳴り遮断機が下りると、その先に立っている自分と今の自分の世界が二つに分断される。赤い警報灯に照らされた幼い自分の顔が、まっすぐとこちらを見下ろして来る。その少年の顔を淀んだ瞳で見上げると、ゴウゴウと間を引き裂く貨物列車が通り過ぎて行った。その先に、少年の幻覚は消えていた。
夢を抱く少年が描く小説は、いつの日かたった一人の編集者を喜ばすためのお道具と化していた。だから、つまらなくなったのだ。少年が抱く夢を、打ち崩されてしまったから。
「先生」
遠い昨日を見ていた椰子は、彼女の一言で我に返った。慌てて何事もなかったの様な顔をして、まだあどけなさの残る彼女の顔を見下ろす。そこで先ほどから気になっていたことを、ようやく聞いた。
「なぜ私を、先生と?」
その質問に、彼女はクスクスと笑ってみせた。口元を隠す手に握られた木炭が鼻先をかすめ、小動物の様な黒い鼻がひくひくと動いた。
「先ほど聞かれたんです。赤いリップが映える、綺麗な大人の女性に。ここらへんで、大正時代からタイムスリップして来たような男の人を見ませんでしたかと」
「それで」
「今日は見ていませんと言うと、先生まだお家かしら、って企むように笑っておられました。彼女、超有名出版社の編集者の方でしょう? 以前ラーメン屋で相席になったことがあるんです」
彼女曰く、相席で仲良くラーメンを啜っている最中、フミの電話が鳴ったらしい。優雅に昼食を嗜んでいた彼女に舞い降りた思いもよらぬ急ぎの要件だったようで、慌てて鞄の中をまさぐり始めたと。その時に社員証が鞄から転がり落ち、それを彼女が盗み見たという訳だ。
「小説家さん、なんですよね」
「ええ、まあ」
「良かったらお名前を教えていただけませんか。先生の作品、読んでみたいわ」
「……いえ、今はまだ」
何かを含ませるような言い方をした椰子は帽子を持ち上げ一礼すると、そのまま路地を登っていった。彼女は下駄を鳴らして歩くしがない小説家の背中を見つめ、炭で汚れた鼻をハンカチで拭きとっていた。
しばらくすると遠い石段の上、和装の男が一人歩いて行く姿が見える。女性はそれを感じ取ると小さく笑みを浮かべ、キャンバスに一人の男を描き足すのである。




