12 知らぬが仏
街に出た椰子は、歩きなれた道を通り昇福亭へと向かって行く。いつも通りのこし餡大福を購入し、その足で向かうは海岸通りだ。波の音を聞きながら、柔らかな皮を口先でついばむ。日課を通り越してもはや習慣となっているこのしきたりを終え、椰子はお尻が焼けてしまいそうなコンクリ―とからようやく重たい腰を持ち上げた。
フミが到着するには、まだ時間があった。内容はともかく原稿は出来ているからして、逃げ隠れする必要はないのであるが、これもまた彼の習慣の一つとなっている訳だ。否、原稿を手渡すときの儀式に近いのかもしれない。そのためか、予定よりも早くやって来たこの地に似つかわしくないスーツ姿の女性を細目で見つけた椰子は、またしても下駄を脱ぎ捨て路地裏へと駆け込んでいくのであった。
おそらく彼女は大福を買いに向かったであろう。商店街を真っ直ぐ突き進んでいく。正面衝突しないように脇道から回り込むと、行きつけのラーメン屋の並ぶ路地を抜けて、商店街へと舞い戻った。
そこからさらに逃げ隠れしてもいいのだが、ふと御旅所のしめ縄が目に留まった椰子。そうだ、ご利益でもいただいておこうじゃないか。そう思い立ち、くたびれた財布を袂から取り出して小銭を漁り始めたのだ。中に入っていた数百円の硬貨を全て掌に乗せると、後腐れもなく神輿の手前に備え付けられている賽銭箱へと放り込む。
男が必死に願うは作品の大ヒットではなかった。大きな波など来なくて良い。実に贅沢な我儘かもしれないが、一世を風靡する小説家はもう味わいつくしたのだ。多くの人の前に立った。何度も同じ話をレンズ越しに話した。今はただ、この街の日常になりたかった。しがない小説家。それが今の目標だ。
椰子が両手を合わせてぶつぶつと唱え終えた頃、丁度後ろから観光客入れ替わりに入って来た。あまりにも夢中で拝んでいる姿が異様に見えたか、それともタイムスリップしてきたその風貌か。観光客の女性は目を丸くして、意気揚々と彼に声をかけてきた。
「地元の方ですか?」
椰子は二度三度目をぱちくりとさせた後、30度ほど首をかしげてうなって見せる。実際の所数年はこの地にいるため、そうだと言えばそうだ。だが違うと言えば、違うのかもしれない。そんな的確な答えなど誰も期待していないのであるが、椰子は思いついた答えをそのままに伝えた。
「そうですね。片足半分くらい」
そんな答えを聞いた相手は、普段なら顔色を変えて話しかけなかったフリをする。だが彼女は元々その質問の答えなどどうでも良かったのか、興味深そうに神輿を見回している。
「お祭りのお神輿なんですね。どんなお祭りなんですか?」
とりとめのない質問に対して椰子は、ふむ、と大きく頷いた。またしてもその場から下駄を抱えて逃げ去るのかと思いきや、なんと咳ばらいを一つして饒舌に語り始めたのだ。祭り当日逃げるように帰還した男が何を偉そうに語るのか。朝早くから起こされているだけな癖に、なぜかすべてを知っているような我が物顔で祭りの魅力を伝え始めた。女性はその話を真面目に聞き終えると、ポケットからスマートフォンを取り出してメモ書きをしたためる。
「氏子さんなんですね。文化の日ですか。また来ます」
その場に置かれている歴史資料を読めば誰でも分かることを、椰子はまるで自分にしか語れないであろう口調で言い切った。おかげで大きな勘違いが生まれてしまった訳だが、否定する間もなく彼女は足早に御旅所から出て行ってしまった。誤解を解いて置こうと椰子が覗き込んだ時には、巨大なリュックを背負ったバックパッカーは、感謝のしるしと両手を大きく振りながら既に10メートル先に進んでいたのである。
追いかけはしなかった。なぜならその先には、フミがいる大福屋があるから。




