10 御旅所と女
椰子はその足で商店街へと向かった。そこから数メートル程のところである。しめ縄と紙垂が飾られた風変わりな空間がそこにはあった。中には装飾細やかな立派な神輿が鎮座しており、鬼の面がいくつも飾られている。とある祭りの『御旅所』である。尾道に来て数年となるが、この場所に入るのは今日が初めてだ。
この場所に全く興味がなかったのかというと、嘘になる。嫌でもこの祭りのことは知っている。尾道市無形民俗文化財に指定されている奇祭、「尾道ベッチャー祭り」。祭りの日になると、早朝から太鼓の音で否が応でも目が覚める。椰子の家から数百メートル下った先にある吉備津彦神社から出発するこの祭りは、山手の方をまわって町へと下る。椰子の家の目の前を通過し歩いて行くもので、音に誘われて外に出れば、突然現れた3体の鬼神が持つ棒で体をつんけんされて非日常の一日が始まる。
その日は実に賑わっている。普段であれば観光客や学校に向かう学生ばかりが往復する商店街を、何百人という人がひしめき合っている。音に招かれ下町に降りたが最後、もみくちゃになり山手に駆る頃にはヘロヘロとなっていた。それからというもの、この祭りの日だけは家の中で大人しくしているという訳である。
ここに飾られているのは、その祭りで担がれる勇ましい神輿であった。祭り当日はゆっくり拝むことが出来ないが、この場所に来れば毎日御利益をいただけるという塩梅だ。人混みを嫌う男にとっては実にありがたいことである。祭りの思い出から勝手に距離をとっていたが、あれほどに尾道が賑わう日はない。今年ばかりは少し足を延ばしてもいいかもしれないと、過去の記憶が霞む椰子であった。
そこには一人の先客がいた。肩程の黒いしなやかな髪が印象的な、色白の女性である。彼女は片手に大きなキャンバスボードを抱え、興味深そうに神輿を隅々まで観察している。あまりに夢中なので、近くでクサいオジサンが立っていることにも気が付かぬ様子であった。
対する椰子は、その場に飾られていた歴史資料にふと目を止める。祭りの由来が記載されてあるそれを読み老けている間に、女性の歩みはこちらへと近づいていた。そしていよいよお互いの肩がぶつかり合う。
「あ、ごめんなさい」
先に謝ったのは女性の方だった。椰子はぶつかって来た彼女を振り返ると、帽子を少しだけ持ち上げて小さなお辞儀をした。
「こちらこそ、どうも」
椰子は謝るふりをして、女性の抱えるキャンバスを盗み見ていた。しかし目を凝らせどそこには何も書かれてはいない。下書きもない、美しい白色を放つキャンバスであった。
女性は名残惜しそうに何度か振り返りながら、御旅所を後にしていった。椰子はその様子を遠慮もせずしっかりと最後まで見届けた後、女性が歩いて行った方向へと頭を出した。だが左右何度確認しても、先ほどの女性の姿はない。どうやらどこかの路地へと入って行ってしまったようだ。
女性の抱える真っ白なキャンバスを思い出していると、己の机に転がる白紙の原稿用紙が記憶の片隅に湧き上がる。続きを、書かなければ。
ふと浮かんだ言葉には気が付かないふりをして、男は下駄の音を鳴らし家とは反対方向へと歩みを進めた。




