ハミルトン伯爵が幸せになるまで:77
試練?(`・ω・´)
『検疫とは、境界線を踏み越えて未来の妻を怒らせた西欧の魔王が、生活圏から自分だけを外科手術のように切り離され、悪意のない事務的な対応と相合傘を遠くから見つめながら、一秒ごとに己の無力さを骨の髄まで刻み込まれる現象のことであるという話』
【大学キャンパス】
~事務的な断絶~
ハミルトン別邸を出て行ってから、五日。
拓海はまだ帰ってこない。
どこに泊まっているのかも、エドワードは知らない。
そして当の本人には、迷いも葛藤もなかった。
まだ顔を見たくない。
まだ一緒に暮らす気分でもない。
だから帰らない。
ただ、それだけだった。
大学の講義には普通に出席する。課題もやる。友人たちとカフェへ行き、
昼になれば芝生に座って飯を食う。男子学生とだって普通に笑って話す。
拓海の日常には、何ひとつ欠けていなかった。
地獄の底を一人で這いずり回っているのは、エドワードだけだった。
◆
「おい」
「…………っ!」
背後から聞き慣れた声がした。
振り向くより先に、心臓が大きく跳ねる。
「……拓海嬢……!」
いた。
すぐそこに、五日前と何も変わらない拓海が、プリントを一枚持って立っている。
エドワードの瞳に、一瞬だけ明らかな期待が浮かんだ。
しかし拓海は、いつもと変わらない調子で紙を差し出した。
「これ。先生がエドにも渡しとけって」
「…………」
「あ……ありがとうございます……」
「ん」
それだけだった。
拓海が踵を返す。
「……拓海嬢」
「何?」
普通に振り返った。
怒ってはいない。睨んでもいない。無視もしない。
ただ、用事があるから話しかけた。
用事が済んだから帰る。
それだけ。
「…………」
まるで、これまで自分だけに許されていた距離を綺麗に剥ぎ取られ、
その他大勢と同じ場所まで押し戻されたようだった。
「……いえ。何でもありません」
ようやく、それだけを絞り出す。
「そ」
拓海はそのまま歩いていった。
「いつ帰ってきてくださるのですか」
聞けなかった。
「どこにいるのですか」
それは、もっと聞けなかった。
口にした瞬間、また自分の不安を解消するために、拓海へ何かを要求することになる気がした。
だから何も言えない。
遠ざかっていく背中を、ただ見送った。
◆
【雨の午後】
~介入不能のファイアウォール~
五日目の夕方。
講義が終わる頃、冷たい秋雨がキャンパスを濡らし始めた。
校舎のポーチで、拓海が空を見上げている。
「うわ。マジか」
傘を持っていないらしい。
少し離れた場所で、エドワードが足を止めた。
右手には大きな傘。
いつもなら、考える必要すらなかった。
すぐに駆け寄り、傘を差しかける。
「拓海嬢、こちらへ」
そう言って、当然のように自分の隣へ入れる。
ずっと、そうしてきた。
一歩、足が前へ出かける。
その時。
「サエキ」
男子学生の声がした。
「傘ないの?」
「ねぇ^^」
「駅までだろ? 入ってく?」
「お、マジ? 助かる!」
「…………」
エドワードの足が止まった。
男子学生が傘を開く。
拓海は何の躊躇もなく、その下へ入った。
二人並んで歩き出す。
「お前、そっち濡れてんじゃんwww」
男子学生が拓海側へ傘を傾けていた。その分、自分の肩が雨に濡れている。
「大丈夫だって」
「大丈夫じゃねぇよ。もっとこっち入れ^^」
拓海が笑いながら、男の腕を軽く引いた。
「…………」
ぎり、とエドワードの指が傘の柄へ食い込む。
胸の奥で、黒いものが一気に膨れ上がった。
行きたい。
あの間へ割って入りたい。
拓海をこちらへ連れてきたい。
いつものように、自分の傘の中へ入れたい。
けれど、動けない。
駆け寄ることも、傘を差し出すことも、男子学生との間へ割って入ることも、今はできない。
拓海は自分で、あの傘を選んだ。
自分で、あの男と帰ることを選んだ。
それを「心配だから」「濡れるから」「婚約者だから」という理由で、
また自分に都合のいい形へ変えようとするなら。
『何も学んでいない』
「…………」
雨の向こうで、拓海が笑っている。
男子学生も笑っている。
二人の背中が、少しずつ小さくなっていく。
「……ハミルトン?」
ジョージが隣から顔を覗き込んだ。
「…………」
「傘、壊れるよ^^」
「…………」
エドワードは、ゆっくりと手の力を抜いた。
「……分かっています」
何が分かっているのか、自分でもよく分からなかった。
ただ、ひとつだけはっきりしていた。
”自分がいなくても、拓海の生活には何の穴も開いていない”
◆
【ハミルトン別邸】
~七日目の接触~
七日目の夕暮れ。
今日も拓海は帰ってこなかった。
エドワードは別邸のリビングで、一人ソファに座っていた。
食卓も静か。
廊下も静か。
書斎の扉も勝手に開かない。
あまりにも静かな屋敷。
その時。
カチャ。
「…………!」
玄関の鍵が開いた。
一瞬、呼吸が止まる。
次の瞬間には、エドワードは立ち上がっていた。
「………拓海嬢!」
ほとんど駆けるように玄関へ向かう。
そこにいた。
見慣れたリュック。
見慣れた黒髪。
見慣れた顔。
「……よ」
「…………っ」
一週間。
たった一週間なのに、何年も会っていなかったように思えた。
「お……お戻りに……?」
声が震える。
翡翠に近い青の瞳に、抑えきれない期待が浮かぶ。
拓海は靴を脱ぎながら、あっさり答えた。
「まだ」
「…………」
期待が一瞬で砕けた。
「着替え足りなくなったから取りに来た。あと、部屋に置いてたノート」
「……そう、ですか……」
「おう」
拓海はそのまま自分の部屋へ向かった。
エドワードは追わなかった。
ただリビングへ戻り、待った。
二十分ほどして、拓海がさっきより大きく膨らんだリュックを背負って戻ってくる。
着替えが数日分。
本。
ノート。
日用品。
「…………」
増えた荷物が何を意味するのか。
考えたくなかった。
◆
【境界線】
~覚えた男~
玄関で、拓海が靴を履く。
「……拓海嬢」
「ん?」
「……車で、お送りしましょうか」
「いい。地下鉄で帰る」
「…………」
一瞬、何かを言いかけた。
けれど飲み込む。
「……分かりました」
それだけだった。
無理に車を用意しない。
「暗いから危険です」とも、「病み上がりなのですから」とも言わない。
拓海が自分で地下鉄を選んだ。
なら、それでいい。
靴紐を結び終えた拓海が立ち上がり、ふとエドワードを見る。
「……居場所」
「……?」
「聞かねぇの?」
「…………」
ほんのわずかに間があった。
それからエドワードは静かに首を横へ振った。
「聞きません」
「…………」
「拓海嬢が、私に話したくないのであれば」
一度、息を飲む。
「それを私が詮索するべきではありませんから」
「…………」
拓海がじっと見る。
エドワードは視線を逸らさない。
けれど、何も求めない。
帰ってきてほしい。
今すぐ抱きしめたい。
どこにいるのか知りたい。
誰といるのか知りたい。
本当は、何もかも知りたい。
それでも口にしない。
拓海の瞳に、ほんの少し観察するような光が浮かんだ。
(……あ)
(学習したな)
それだけ。
「じゃ」
リュックを背負い直す。
「またな」
「…………はい」
ドアが開く。
「お気をつけて」
「おう」
バタン。
扉が閉じる。
再び、静寂。
エドワードはしばらくその場から動かなかった。
拓海は、まだ戻らない。
エドワードがひとつ境界線を覚えたからといって、
拓海の気持ちまで同じ速度で元へ戻るわけではない。
”そもそも、これは罰ですらない”
拓海はエドワードを苦しめるために帰らないのではない。
ただ、まだ帰りたいと思っていない。
だから帰らない。
それだけだった。
そしてエドワードには、その意思を変えさせる権利も、帰宅を要求する権利もない。
一週間ぶりに拓海が帰ってきた。
けれど、また出ていった。
しかも前より大きな荷物を抱えて。
「…………」
胸が痛む。
それでも追わない。
玄関の扉へ手を伸ばさない。
今度こそ、その境界線を守る。
拓海が自分の意思で再びこの扉を開ける日が来るのか。
それすら、エドワードには分からない。
選ぶのは、いつだって拓海なのだから。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




