ハミルトン伯爵が幸せになるまで:76
エドワード、やらかす
『越境とは、過保護の暴走によって未来の妻の自由意志を踏み越えた西欧の魔王が、「心配と管理は別だ」と狂犬お嬢様(拓海)に完全拒絶され、自分がいなくても世界で一番楽しそうに笑う彼女を遠くから見つめながら、己の傲慢と剥き出しの絶望に苛まれる現象のことであるという話』
【ハミルトン別邸】
~踏み越えた境界線~
発熱から二日。
ようやく平熱へ戻り、久しぶりにぐっすり眠った翌朝。
「ふぁぁぁぁ~~っ!!」
拓海はベッドの上で盛大に伸びをした。
「やっと身体動くわ」
二日間ほとんど寝たきりだったせいで、多少のだるさは残っている。
それでも熱はなく、食欲も戻った。本人としては、もう寝ている理由などない。
「よし。今日から大学戻る^^」
勢いよくベッドから降り、クロゼットを開ける。適当な服を引っ張り出して着替えようとした、
その背後から静かな声がした。
「拓海嬢」
「ん?」
「今週いっぱい、大学はお休みです」
「…………」
拓海の手が止まった。
「……は?」
「まだ病み上がりです。無理をさせるわけにはまいりません」
エドワードは、いつものように穏やかな声で続ける。
「大学の事務局へは、私から欠席の旨を伝えてあります。教授への連絡も済ませ、
ゼミの発表は来週以降へ延期していただきました」
「…………」
「本日の公務と来客もすべてキャンセルしております。専属車も待機させておりませんので、
今週いっぱいはこちらでゆっくり─……」
そこまで言って、ようやくエドワードは気づいた。
拓海が何も言わない。
「……拓海嬢?」
ゆっくりと振り返った顔には、つい先ほどまで「大学行くぞ^^」と笑っていた明るさが、
欠片も残っていなかった。
「…………誰が」
「……?」
「誰が、そこまでしろっつった?」
「…………っ」
低い声だった。
その瞬間、エドワードの背筋を冷たいものが走る。
やった。
何かを間違えた。
いや、間違えたどころではない。
”踏み越えた”。
それでも、肥大化した心配と恐怖が口を動かした。
「ですが……万が一、また倒れるようなことがあっては……」
「エド」
「はい……」
「心配すんのは勝手だよ。休めって言うのも分かる」
拓海はまっすぐにエドワードを見る。
「でも、心配すんのと、俺の行動を勝手に決めて管理すんのは別だろ」
「…………」
何も言えなかった。
◆
【拒絶】
~触れることすら許されない~
拓海はそれ以上何も言わなかった。
無言で服を着替え、髪をまとめ、財布と鍵、それから必要なものだけをポケットへ突っ込む。
「拓海嬢……」
返事はない。
そのまま寝室を出て、玄関へ向かっていく。
「待ってください。まだ本調子ではありません。せめて今日は──」
「嫌だ」
「ですが……!」
焦ったエドワードが、その肩へ手を伸ばす。
ぱしっ。
乾いた音がした。
伸ばした手を、拓海に叩き落とされた。
「…………っ」
拓海は振り返らない。
ただ、一言。
「触んな」
「…………」
エドワードの手が宙で止まった。
これまで怒鳴られたことなら何度でもある。
「馬鹿!」
「過保護!」
「うるせぇ!」
そんな言葉はいくらでも浴びてきた。
けれど、触れることそのものを拒絶されたことは、ほとんどなかった。
「……拓海嬢」
「しばらく帰らん」
「…………え?」
頭の中が真っ白になる。
「ど……どちらへ……?」
「教えねぇ」
「せめて居場所だけでも……」
「なんで?」
「…………」
「言ったら来るだろ、お前」
「…………っ」
否定できなかった。
拓海が玄関のドアノブへ手を掛ける。
「じゃ」
「拓海嬢……!」
最後に、拓海が振り返った。
怒鳴りもしない。
ただ、静かな顔でエドワードを見る。
「少し、自分が何やったか考えろ」
そして、扉が閉まった。
バタン、と響いた重い音だけが、静まり返った玄関ホールに残った。
◆
【一日目】
~どこにもいない~
その日、拓海は大学にも姿を見せなかった。
連絡もない。
どこにいるのか分からない。
詩織のところかもしれない。友人の家かもしれない。
ホテルかもしれないし、まったく別の場所かもしれない。
エドワードは何度も電話を手に取った。
かけたい。
今すぐ声を聞きたい。
居場所を知りたい。
無事なのか確かめたい。
できることなら、今すぐ迎えに行きたい。
けれど、そのたびに拓海の言葉が蘇る。
『言ったら来るだろ、お前』
「…………」
電話を置いた。
探そうと思えば探せる。
ハミルトン家の力を使えば、一人の女子学生の居場所を突き止めることなど難しくない。
だが、それをすればまた同じだ。
拓海が「教えない」と決めた意思を、自分の不安を理由に踏み潰すことになる。
だから、何もできない。
エドワードは一人で別邸へ帰った。
いつも拓海が寝転がっているソファは空だった。
食卓にも誰もいない。
書斎の扉が突然開いて、「エド、腹減った^^」と勝手に入ってくることもない。
静かだった。
拓海が来る以前、この屋敷はずっとこんなふうだったはずなのに。
今は、その静けさが恐ろしかった。
◆
【二日目】
~遠すぎる距離~
翌日。
大学の講義棟へ向かっていたエドワードの足が、不意に止まった。
「…………!」
いた。
遠く、中庭を歩いている。
拓海だった。
友人たちに囲まれ、いつものようにリュックを背負って歩いている。
昨日は大学を休んだらしいが、今日はもう普段と変わらない。
元気そうだった。
風邪もぶり返していない。
ちゃんと歩いている。
ちゃんと笑っている。
それだけで全身から力が抜けた。
「……よかった……」
無事だった。
それなのに、足が動かない。
声をかけることもできない。
やがて、拓海がこちらに気づいた。
視線が重なる。
「…………」
「…………」
ほんの数秒だった。
拓海は逸らしもしなければ、睨みもしなかった。
ただエドワードを見て、それから何事もなかったように友人へ視線を戻し、
そのまま歩いていった。
『こちらへは来ない』
たったそれだけのことが、怒鳴られるよりもずっと深く胸に突き刺さった。
◆
【三日目】
~自分のいない幸福~
三日目の昼。
拓海は芝生の上で、友人たちと昼食を取っていた。
サンドイッチを大きな口で頬張りながら、誰かの話を聞いている。
少し離れた場所から、エドワードはその姿を見つめていた。
輪の中には男子学生も何人かいる。
そのうちの一人が何かを言った。
「ぶはっ!!」
拓海が盛大に吹き出し、腹を抱えて笑う。
男子学生がふざけて肩を小突けば、
「やめろってwww」
と笑いながら、その背中をばしっと叩き返した。
「…………」
元気だ。
風邪の後遺症など微塵も感じさせない。
何ひとつ困っていない。
そして何より、楽しそうだった。
自分がいなくても。
佐伯拓海は、何も失っていない。
「ハミルトン」
隣から声をかけられた。
ジョージだった。
「……行かないの?」
「…………」
「いつもの君なら、とっくにあの男子学生との間に割り込んでる頃じゃない^^」
「……行けません」
「どうして?」
長い沈黙のあと、エドワードは掠れた声で答えた。
「……拓海嬢は今、私を自分のそばに置きたくないのです」
ジョージは何も言わない。
「それなのに私が行けば……また、同じことをします」
目を伏せる。
「そして今度こそ、本当に帰ってこなくなるかもしれない」
◆
【真実】
~決して対称にはならない~
エドワードは知っている。
拓海は自分を嫌っているわけではない。
むしろ、好いてくれている。
信頼もされている。
自分がそばにいれば安心して眠り、一緒に食事をすることを当たり前だと思ってくれる。
確かに自分は、拓海にとって特別な存在なのだろう。
だが。
『唯一ではない』
その事実だけは、絶対に取り違えてはいけない。
エドワードにとって、佐伯拓海は唯一無二だ。
代わりなどどこにもいない。
彼女がいなければ、どれほどの富があろうと、地位があろうと、何一つ自分を幸福にはしてくれない。
けれど、拓海は違う。
日本へ帰れば家族がいる。
友人もいる。
どこへ行っても新しい生活を始められるし、新しい人間関係を作っていける。
今、目の前でそうしているように。
自分がいなくても笑える。
自分がいなくても楽しく過ごせる。
そして、もし明日。
たまたま出会った誰かを拓海自身が、
「こいつがいい^^」
と気に入ったなら。
おそらく、それで終わる。
これまで一緒に過ごした時間も、ハミルトン家の名誉も財産も、
婚約という約束すら、拓海を自分のそばへ縛りつける鎖にはならない。
未練や情だけを理由に、自分の人生を差し出すような女ではない。
だから、怖い。
目の前にいる男子学生が怖いのではない。
拓海が自由であることそのものが、怖い。
けれど、その自由を奪おうとすれば、もっと早く彼女を失う。
ずっと薄々分かっていた。
捕まえれば逃げる。
閉じ込めれば噛みつく。
強く握れば、その手を振りほどく。
それが佐伯拓海という人間だ。
男であろうと女であろうと、そこだけは変わらない。
”何者にも縛られない”
そんな拓海を、自分は好きになった。
それなのに。
「守る」という聞こえのいい言葉で自分の恐怖を覆い隠し、本人の意思を無視して行動を決めた。
守ったのではない。
自分が安心するために、拓海を管理しようとした。
「…………私は」
エドワードが小さく呟いた。
「何をしてしまったのでしょうね……」
ジョージは答えなかった。
◆
【越境】
~手を伸ばせない男~
秋の冷たい風が、芝生の上を吹き抜ける。
少し離れた陽だまりから、
「だからそれ違うってwww」
拓海の笑い声が聞こえた。
エドワードはただ、その姿を見ていた。
自分がいなくても笑う女。
自分がいなくても生きていける女。
自分がいなくても、きっと幸せになれる女。
そして自分は、その女がいなければ幸せになれない。
どうしようもなく非対称な二人なのだ。
だからこそ、今までなら何としてでも手を伸ばした。
けれど、今は伸ばせない。
今、自分がすべきことは拓海を「取り戻す」ことではない。
そもそも拓海は、自分の所有物ではない。
戻るかどうかを決めるのも拓海だ。
それが何より恐ろしい。
なぜなら、選ぶのは自分ではないから。
”拓海だから”
「…………」
遠くで男子学生がまた何かを言い、拓海が声を上げて笑った。
エドワードは動かない。
いや、動けない。
伸ばした手でもう一度彼女の自由を掴んでしまえば、次こそ本当に、
その背中は二度と戻ってこないかもしれない。
だから、ただ”待つ”。
自分を選べとは言えない。
戻ってこいとも言えない。
それでも、戻ってきてほしいと願いながら。
エドワードは青白い顔で、陽だまりの中、誰とでも自由に笑う未来の妻の背中を見つめ続けていた。
彼女が次にどこへ向かうのか。
その行き先を、自分には決める権利などひとつもないのだと。
ようやく骨の髄まで思い知りながら。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




