小話8 「命名(コンパイル)とは、西欧の魔王(エドワード)の長男という重責ある名が、十五年前の約束とホテルの映画DVD一本で秒で決まる現象のことである」という話
ジェシカとエドワードの関係はちょっと好き
【イギリス・ハミルトンホール 本館・医療区画】
東館の住人たち……
佐伯一家が、過保護と英才教育とワンオペ育児の嵐をどうにか乗り越え、ようやく生活のリズムを掴み始めた頃。
ハミルトンホールの医療区画では、一人の男児が静かに産声を上げていた。
エドワードとジェシカ。
契約結婚の末に誕生した、ハミルトン家の血統を繋ぐ子供だった。
生まれたばかりの赤子を見下ろし、エドワードは静かに頷く。
「……息子か。」
ベッドの上のジェシカが小さく笑った。
「これで私の役目も終わり。来週にはアメリカへ戻るわ。」
「ああ。世話になった。」
「名前は?」
「私が決める。」
「お願いね。」
契約書でも読み合わせるような、実に事務的な会話だった。
しかし
ジェシカが眠りにつき、部屋を出た瞬間だった。
エドワードは迷いなく専用端末を取り出し、国際回線を起動する。
呼び出し先は一件だけ。
”佐伯拓海”
【イタリア・出張先ホテル】
慣れない海外出張
慣れないスーツ
慣れない書類
拓海は机へ突っ伏しそうになりながら、山積みの契約書と格闘していた。
その時
専用の携帯電話が鳴る。
「はい、佐伯です。」
『タクミか。私だ。』
聞き慣れた低い声。
「エド?どうした。」
『息子が生まれた。』
「おっ、マジか!おめー」
『名前を決めてくれ。』
「…………は?」
一瞬、思考が止まる。
『約束だろう。』
「何が。」
『私の子供の名前を付けると。』
拓海は受話器を見つめた。
「……は?」
『十五年前、学院で約束した。』
「覚えてられるか、そんなもん!!」
エドワードは一切動じない。
『生まれることは知っていただろう。』
「だからって今言うか普通!?」
『早く決めてくれ。』
「無茶言うな!」
『約束だ。』
「だから知らねぇって言ってんだろバカちんが!!」
十五年前、
校舎の廊下で交わされた、ほんの思いつき程度の会話。
拓海はその日の昼飯すら忘れている。
だがエドワードは違う。
拓海の言葉は、一言一句すべて正式契約として脳内保存されていた。
拓海は頭を抱えながら部屋を見回した。
「くそ……何か……何かねぇのか!」
その時だった。
テーブルの上に、一枚のDVDケースが目に入る。
前の宿泊客が置き忘れたのだろう。
そこには大きく書かれていた。
『NOAH(ノアの箱舟)』
「……ノア。」
一拍。
「ノアでいいんじゃねぇか!? ほら! なんか『安息』とかそんな意味もあった気がするし!」
受話器の向こうが静かになる。
『……ノア。』
エドワードがゆっくり繰り返す。
『ノア・ハミルトン。』
さらに一拍。
『……素晴らしい。』
その声には、珍しく感情が滲んでいた。
『タクミ。我が子へ、これほどの名を授けてくれたこと、心から感謝する。』
「いや、たまたま――」
『ありがとう。』
「いや、だから!」
『本当にありがとう。』
ガチャ。
……切れた。
「……切りやがった。」
拓海はしばらく電話を見つめる。
そして肩をすくめた。
「まあ、気に入ったならいっか。」
そのまま再び書類へ向き直る。
数分後には、命名の経緯などすっかり忘れていた。
こうして。
ハミルトン家次期当主、
ノア・ハミルトンは誕生した。
拓海にとっては、
ホテルのテーブルに置いてあったDVDを読んだだけである。
しかしエドワードにとっては違った。
親友が我が子の未来を願い、
「安息」という祈りを込めて授けてくれた至高の名。
そうしてこの命名秘話は、ハミルトン家で半ば伝説として語り継がれることになる。
なお、
当の名付け親だけは最後まで、
「ホテルのDVD見て適当に言っただけなんだけど?」
という事実を思い出すことはなかった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
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