第五百七十三話 「条件(契約)とは、対価ではなく、初めて拓海が差し出した『助けてくれ』を、西欧の魔王(エドワード)が二度と離さぬようその手を自らの重力(手元)へ引き寄せるための罠のことである」という話
エドワード
「計画通り( ̄ー ̄)ニヤリ」
【日本・世田谷】
~十年目の発信~
深夜
リビングの照明は落とされ、テーブルの上に置かれた小さな端末だけが、青白い光を放っていた。
一般の電話回線ではない。
ジョージが持ち込んだ、ハミルトン家専用の暗号通信端末だった。
「これなら、どこにも拾われないよ」
そう言って接続を終えたジョージは、ソファの背へ軽く腰を預けた。
「繋がってる」
「ああ」
拓海は短く答えた。
端末の前に座ったまま、動かない。
受話器へ伸ばしかけた手を、一度止める。
警察官になってから
いや、それよりもずっと前から
拓海は、自分の問題を他人へ預けることが苦手だった。
殴られようが
傷つけられようが
自分一人が泥を被れば済むのなら、そうしてきた。
何でも一人で抱え込み。
どうにか立ち上がり。
最後には、いつものように大口を開けて笑ってみせる。
エドワードは、そんな拓海へ何度も言ってきた。
『困ったら来い』
『いつでも頼れ』
『お前の場所は、こちらにもある』
そのたびに拓海は笑った。
大丈夫だ。
何とかなる。
世話になるほどじゃない。
そう言って、一度も差し出された手を取らなかった。
だが今
廊下の向こうでは、幼い子供たちが眠っている。
悠馬は、もう何日も幼稚園へ行っていない。
双子は、公園へも出られない。
菜摘は何も言わずに笑っている。
その笑顔が、日に日に疲れていくことを
拓海は見ないふりができなかった。
守るために閉じ込めている。
危険から遠ざけるために、家族の日常を奪っている。
そんなものは、もう防衛とは呼べなかった。
拓海は受話器を取った。
発信ボタンを押す。
呼び出し音は、一度も鳴らなかった。
『……どうした、タクミ』
即座に、低い声が届いた。
英国はまだ、夜明け前のはずだった。
それでもエドワードは、まるでこの電話が来ることを最初から知っていたかのように、
いつもと変わらない声で応じた。
拓海は息を吸った。
「……エド」
たった二文字。
だが、その呼び方だけで
エドワードには、すべて伝わった。
そこには冗談もなかった。
強がりもなかった。
笑って誤魔化す余裕さえ、もう残されていなかった。
『聞いている』
拓海は目を閉じた。
「……頼みがある」
受話器の向こうで、エドワードは何も言わない。
急かさない。
問い返さない。
ただ、拓海が続きを口にするまで待っていた。
拓海は拳を握った。
自分の弱さも
情けなさも
警察官としての意地も。
その一言のために、すべて飲み込んだ。
「……家族を、預かってくれないか」
沈黙はなかった。
考える時間すら必要なかった。
『構わない』
即答だった。
あまりにも早く。
あまりにも迷いのない答えに、拓海の肩から僅かに力が抜けた。
「……サンキュ」
『ただし』
安堵の息を吐きかけた拓海の耳へ、エドワードの声が重なる。
『条件がある』
拓海の眉が寄った。
「条件?」
『タクミ』
声は穏やかだった。
だが、そこには一切の交渉を許さない硬さがあった。
『お前も来い』
拓海は一瞬、言葉を失った。
「……は?」
『菜摘さんと子供たちだけではない。お前も一緒に来い』
「おい、バカ言うな!」
拓海は思わず声を上げた。
「俺は警察官だぞ。仕事もある。事件だって、まだ完全に終わったわけじゃねぇ。
だから家族だけでも安全なところに―」
『ならば断る』
あまりにも簡単に。
エドワードは切り捨てた。
「なっ……!」
拓海が絶句する。
少し離れた場所で聞いていたジョージが、片手で口元を隠した。
(はい、出た。)
(そうなると思ったよ。)
拓海は受話器を握り直した。
「エド、お前な……! 今そういう面倒くせぇこと言ってる場合じゃ――」
『面倒なことを言っているのはお前だ』
エドワードの声は、どこまでも冷静だった。
『私は、お前の家族だけを預かるつもりはない』
「だから―」
『子供たちから父親を奪う気はない』
拓海の言葉が止まった。
『菜摘さんから夫を奪う気もない』
「……」
『お前が残れば、家族は英国にいても安心などできない。お前が危険の中に残っていると知りながら、
何事もなかったように暮らせると思うか』
拓海は答えられなかった。
悠馬なら、毎日聞くだろう。
おとうさんはいつ来るの。
菜摘は、笑って大丈夫だと言うだろう。
その笑顔の裏で、拓海の無事を祈り続ける。
双子は、何も分からないまま父親を探す。
それは、守ったことにはならない。
『タクミ』
エドワードが静かに呼ぶ。
『家族というものは、全員で避難するものだ』
正論だった。
恐ろしいほどに。
反論の余地など、どこにも残されていなかった。
もっとも、その言葉の奥底に。
十年以上、一度として自分の手を取らなかった男を、今度こそ手元へ引き寄せるという
エドワード・ハミルトンの執念が沈んでいることを。
拓海だけは知らなかった。
ジョージは知っていた。
(家族は一緒に、ね。)
(うん。言ってることは間違ってない。)
(間違ってないんだけどさ。)
(それ、ハミルトンが言うと意味が増えるんだよねぇ。)
「……すぐには無理だ」
拓海が低く言った。
『待つ』
「上にも話を通さなきゃならねぇ。引き継ぎもある」
『構わない』
「家族の渡航手続きだって――」
『問題ない』
間髪入れず返される言葉に、拓海の眉間の皺が深くなる。
「……お前、何で全部即答なんだよ」
『必要な準備は、以前から済ませてある』
「以前って、いつだよ」
一拍。
『十年ほど前だ』
「何でだよ!!」
深夜のリビングに、拓海の声が響いた。
廊下の向こうを気にして、慌てて口元を押さえる。
ジョージはとうとう顔を背けた。
肩が僅かに震えている。
「お前、十年前から俺の家族が避難する準備してたのかよ!」
『正確には、お前がいつ来ても問題がないよう準備していた』
「それを普通は準備してたって言うんだよ!」
『ならば、そうなのだろう』
「そうなのだろう、じゃねぇ!」
いつものやり取りだった。
だが
いつもと違うのは
拓海が今、エドワードの申し出を笑って断れないことだった。
警察官としての自分。
日本での生活。
自分が選び、築き上げてきた場所。
すべてを手放すつもりなどない。
事件が終われば戻る。
安全が確認できるまで。
ほんの一時
家族を守るために、英国へ避難するだけだ。
そう自分へ言い聞かせる。
だが
悠馬の寂しそうな顔が浮かんだ。
菜摘の疲れた笑顔が浮かんだ。
眠る双子の小さな手が浮かんだ。
拓海の中で、答えは、最初から一つしかなかった。
長い沈黙。
受話器を握る指に力が入る。
やがて拓海は、ゆっくりと目を閉じた。
「……わかった」
受話器の向こうも、静かだった。
だが
次に聞こえたエドワードの声は、僅かに柔らかくなっていた。
『そうか』
たったそれだけだった。
勝ち誇ることもない。
笑うこともない。
『では、こちらで準備を進める』
「ああ」
『必要なものはジョージへ伝えろ。警察との調整が済み次第、迎えを出す』
「……ずいぶん手際がいいな」
『十年待った』
「だから何で十年前から決定事項なんだよ……」
『タクミ』
「何だよ」
『待っている』
拓海は少しだけ黙った。
そして
疲れ切った顔で、ほんの僅かに笑った。
「……ああ」
通話が切れた。
リビングに静けさが戻る。
拓海は受話器を置き、ソファの背へ身体を預けた。
全身から力が抜けていく。
「……これでいい」
誰へ言うでもなく呟く。
「事件が片付くまでだ」
ジョージは何も言わない。
「安全だって分かれば戻ってくる。家族には少し窮屈な思いをさせるかもしれねぇけど、
しばらくの辛抱だ」
ジョージは腕を組み、拓海を眺めた。
(そうだね。)
(タクミは、そう思ってるだろうけどね。)
(だけどハミルトンは違うな。)
(完全に『帰ってくる』と解釈してるよ。)
(もう席も、部屋も、仕事も、人生も、全部準備は整っているしね。)
(……ほんと、ご愁傷様wwwww。)
拓海が顔を上げた。
「……何笑ってんだよ」
「いや?」
ジョージは涼しい顔で首を振った。
「笑ってないよ」
「絶対笑ってただろ」
「気のせいじゃないかな」
「お前なぁ……」
ジョージはソファから身を起こすと、端末を片付け始めた。
そして、何でもないことのように言った。
「あーあ」
「何だよ」
「言っちゃったね、サエキ」
拓海が眉を寄せる。
「……何を?」
ジョージは端末を鞄へ収め、にっこりと笑った。
「ハミルトンに、助けてくれって」
「だから何だよ」
「いや、別に?」
ジョージは肩を竦めた。
「事件が終わったら日本に戻るんだよね」
「あたりめぇだろ」
「そう」
「何だよ、その言い方」
「ううん。何でもないよ」
ジョージは笑顔のまま、拓海の肩を軽く叩いた。
「ご愁傷様、サエキ」
「何がだよ!!」
拓海の声が、再び深夜のリビングへ響く。
その頃。
遠く離れた英国、ウィルトシャー。
ハミルトンホールの静かな執務室で
エドワード・ハミルトンは受話器を置き、机の引き出しから一冊のファイルを取り出していた。
表紙には、簡潔に記されている。
【佐伯一家・英国移住計画】
作成日は、十年前。
エドワードは最初の頁を開いた。
住居。
子供たちの教育環境。
菜摘の生活支援。
拓海の職務。
必要なものは、すべて揃っている。
変更すべき点は、子供の人数と年齢だけだった。
エドワードは静かにペンを取る。
そして。
誰に聞かせるでもなく、低く呟いた。
「……ようやくか」
拓海にとっては
危険が去るまでの、一時的な避難。
エドワードにとっては
十年以上帰りを待ち続けた男が、ようやく自ら戻ってくる日。
同じ「わかった」という一言を交わしながら。
二人の認識は、一ミリたりとも噛み合っていなかった。
こうして。
佐伯一家の英国渡航という名の避難と
エドワード・ハミルトンによる、十年越しの拓海回収計画は
まったく同時に
静かに、実行段階へ移行したのだった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
いいねや感想など、いつも励みになっています。
この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




