第五百七十話 「誤認(ミスリード)とは、相手の能力を見誤ることではなく、相手が何を守ろうとしているのかを最後まで理解できない現象のことである」という話【前編】
なんかこれ長くなったので前後編で(`・ω・´)
ヨーロッパ。
窓のない部屋。
壁一面に並ぶモニターのうち、日本を示す領域だけが、異様な速度で赤く染まり続けていた。
口座凍結。
主要倉庫への家宅捜索。
関連会社役員の拘束。
通信拠点の遮断。
協力者の離反。
一つ、
また一つ。
長い年月をかけて作り上げた経路が、音もなく断ち切られていく。
ヴィクターは椅子へ深く腰掛けたまま、何も言わず画面を見ていた。
苛立ちもない。
焦りもない。
ましてや怒声など上げるはずもない。
ただ、数字を見ていた。
損失額。
回収可能資産。
残存人員。
露見した接続先。
再建に必要な期間。
そこに感情が入り込む余地はなかった。
やがて、室内のスピーカーから部下の声が響く。
『管理者』
ヴィクターは応じなかった。
返答がなくとも、報告は続く。
『日本支部との暗号通信が、三系統とも途絶しました』
画面の一つが切り替わる。
東京湾岸、早朝。
倉庫の周囲を取り囲む捜査車両。
防弾装備の捜査員が、次々と建物内へ突入していく。
『湾岸の保管拠点へ警視庁が入りました。名古屋、大阪の協力会社にも同時に捜索が入っています』
別の画面。
凍結された複数の口座。
停止された海外送金。
公安が押収した帳簿と端末。
『日本支部が使用していた海外送金記録が押収されました。このまま解析が進めば、
中継会社から欧州方面への経路を特定される可能性があります』
一拍。
部下の声がわずかに低くなる。
『……すでに、一部は辿られている恐れもあります』
沈黙。
ヴィクターは指先で机を一度だけ叩いた。
感情ではない。
決定の前に、思考を区切るための癖だった。
「日本支部の残存資産は」
『回収可能なのは現時点で六十八パーセントです』
「人員」
『国外退避可能な者は四割程度。残りは警察の監視下、あるいは連絡不能です』
「情報」
『主要サーバーは消去処理中です。ただし、押収された端末の中に、
復元される可能性のあるデータがあります』
ヴィクターは目を細めた。
「完了まで」
『最短で三時間』
「遅い」
『申し訳ありません』
「謝罪は必要ない。速度を上げろ」
『はい』
画面の中、
赤い警告表示が増えていく。
ヴィクターはそれを眺めながら、当初の計画を頭の中でなぞった。
日本支部は、切り捨てる予定ではなかった。
少なくとも、完全に失うつもりはなかった。
警察が動く可能性は想定していた。
現場の人間が捕まることも。
複数の拠点を押さえられることも。
日本法人の表向きの事業が停止することも。
その全てを、損失として計算に入れていた。
日本支部へ警察を引き付ける。
末端を渡す。
幹部を数人切る。
口座を一部凍結させる。
その間に、中枢へ繋がるデータと資産を静かに退避させる。
捜査が一段落した後。
別の法人。
別の人間。
別の名義で再び動き始める。
日本は価値の高い市場だった。
物流
資金洗浄
人材
東アジア各国への接続
失うには惜しい。
だからこそ、
壁として使いながらも、骨格だけは残す予定だった。
だが
今、その骨格へ手が届き始めている。
「……想定以上だな」
独り言のような言葉に、部下が反応する。
『警察の動きが、ですか』
「違う」
ヴィクターは短く答えた。
警察だけなら問題はなかった。
公安だけでも。
ハミルトンだけでも。
一つの組織が動くだけならば、対応できる。
権限には限界がある。
管轄がある。
国家がある。
互いに共有できない情報がある。
どれほど巨大な組織でも、必ず境界線を持っている。
その境界線こそが、
彼らが長年、各国で生き残ってきた理由だった。
だが今。
本来なら決して噛み合わないはずの歯車が、同時に回っている。
警視庁
公安
ハミルトン
そして、
地方署に所属する一人の刑事。
画面が切り替わる。
一枚の顔写真。
【佐伯拓海】
特別な男には見えなかった。
日本人。
刑事。
三十前後の年齢。
表情には鋭さよりも、どこか無防備な印象すらある。
だがその男が美咲という少女を保護してから、状況は急速に変わった。
少女の証言
車両
倉庫
偽装会社
資金
人員
一つの小さな事件から始まったはずの捜査が
日本支部の表層を剥がし
内部構造へ入り込み
ついには欧州へ続く接続点まで露出させている。
ヴィクターは画面へ表示された時系列を追った。
最初は、少女の救出。
次に、周辺人物への聞き込み。
その後
不自然な車両への接触。
関連会社の洗い出し。
警視庁内部の捜査。
公安との情報共有。
ハミルトンによる資金と物流の解析。
一つ一つだけを見れば偶然に見える。
現場の刑事が、目の前の事件を追った結果だと、
そう解釈することもできる。
だが結果は一方向へ進み続けている。
日本支部
中継会社
海外口座
欧州本部
あまりにも正確だった。
あまりにも無駄がない。
「……偶然ではない」
ヴィクターは静かに言った。
『管理者』
「偶然は、一度なら存在する」
画面へ指を滑らせる。
美咲の保護。
日本支部への接触。
ハミルトンへの連絡。
公安の介入。
「二度目からは意図だ」
部下が黙る。
ヴィクターは佐伯拓海の顔写真を見つめた。
この男は日本支部だけを見ていない。
少女一人を救って終わるつもりでもない。
最初から
その背後にいる者を探していた。
日本法人の先。
中継組織の先。
自分たちのいる場所まで。
「佐伯拓海は、本体を狙っている」
部屋の空気がわずかに変わった。
『……我々を』
「ああ」
『しかし、彼は所轄の刑事です』
「肩書に意味はない」
ヴィクターは即座に返した。
「重要なのは、彼自身がどこまで権限を持つかではない」
画面上。
佐伯拓海の周囲へ、複数の名前が表示される。
松本龍平。
警視庁公安部。
ハミルトン家。
英国側調査機関。
「彼が違和感を口にすれば、松本龍平が証拠に変える」
「彼が危険を察知すれば、ハミルトンが国境を越えて動く」
「彼が被害者を見つければ、警察組織そのものが動き始める」
『本人に、そのつもりがあるかは』
「ある」
ヴィクターは断言した。
「なければ、ここまで一貫した動きにはならない」
それは、合理的な結論だった。
正しい情報を並べ
起きた結果を分析し
最も可能性の高い答えを導き出す。
ヴィクターは間違えていなかった。
ただ一つ。
佐伯拓海が
何も考えずに目の前の人間へ手を伸ばし続ける男だということだけを。
”理解していなかった”
『では、どうしますか』
ヴィクターは視線を落とす。
日本支部
長年かけて築いた拠点。
収益
物流
接続地域
利用価値
すべてを残す方法を、頭の中で再計算する。
数秒。
十数秒。
やがて
答えが出た。
「日本から撤収しろ」
部下の声が止まった。
『……すべて、ですか』
「すべてだ」
『ですが、日本は極東最大の拠点です』
「分かっている」
『資金だけではありません。人員、情報、物流。アジア各国へ接続するための中枢でもあります』
「それも分かっている」
『完全に切れば、再建には数年を要します』
「計算済みだ」
『それでも』
ヴィクターは顔を上げた。
「日本を残せば、いずれ彼はそこから本体へ到達する」
『佐伯拓海が』
「ああ」
「日本支部は、もはや壁ではない」
一拍。
「扉になった」
部屋が静まり返る。
誰も反論しなかった。
ヴィクターは続ける。
「扉である以上、閉じるだけでは不十分だ」
「消せ」
『……承知しました』
「全資産を移動」
『はい』
「接続先を変更」
『はい』
「国外退避可能な人員だけを出せ」
『出られない者は』
「切れ」
声音は平坦だった。
『承知しました』
「日本側で拘束された者には、本体へ繋がる情報を一切残すな」
『すでに処理を開始しています』
「三時間では遅い」
『一時間半まで縮めます』
「一時間だ」
『……はい』
画面上
日本と欧州を繋いでいた複数の線が、次々と黒く塗り潰されていく。
資産移動
通信停止
データ消去
拠点閉鎖
人員切り捨て
ヴィクターは、自ら築いた一つの国を、自らの手で切り離していった。
「日本支部は終わりだ」
口に出した瞬間。
ほんの僅かに彼の視線が収益表へ落ちた。
成長率
取扱量
将来価値
「……惜しいな」
初めて損失に対する感情らしいものが、声へ滲んだ。
「非常に利用価値の高い支社だった」
『管理者』
「だが」
ヴィクターは佐伯拓海の写真へ目を戻した。
「本体を守るためなら安い」
画面が暗転する。
一つ。
また一つ。
日本支部の機能が停止していく。
最後に残ったのは
佐伯拓海の顔写真だけだった。
「日本を失うだけで済むなら」
ヴィクターは低く呟く。
「安いものだ」
指先が画面へ触れる。
「だが」
「我々の本体へ辿られることだけは、許されない」
佐伯拓海の顔が消えた。
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その頃。
東京、世田谷署。
拓海は廊下の窓際に立ち、携帯電話を耳へ当てていた。
窓の外には、見慣れた住宅街が広がっている。
穏やかな午後。
だが
視線は自然と、道路を走る車へ向いていた。
白いワゴン
黒いセダン
バイク
歩行者
誰が見ている
どこから見ている
昨日からそのことばかりを考えている。
『大丈夫よ』
電話の向こう。
菜摘の声。
努めて明るく聞こえる。
だからこそ
不安を隠していることが、すぐに分かった。
「今日は外に出るな」
『出ないわよ』
「買い物もいい」
『冷蔵庫にあるもので何とかするわ』
「足りなかったら俺が買う」
『拓海』
一拍。
「何」
『仕事は大丈夫なの』
拓海は答えなかった。
仕事
捜査
美咲
GL
考えなければならないことは多い。
だが頭から離れないのは。
悠馬の小さな手だった。
毎朝何も知らずに握ってくる手。
幼稚園へ向かう道を冒険だと笑う顔。
そのすぐ後ろに誰かの視線がある。
「大丈夫」
短く答える。
『本当に?』
「今日も俺が迎えに行く」
『いつもより早い方がいい?』
「いや」
拓海は窓の外へ目を向けたまま言った。
「時間は変えない」
『どうして』
「急に変えたら、悠馬が不安になる」
それだけではない。
こちらが大きく動けば監視している相手も動く。
まだ
どこまで相手が把握しているか分からない。
家
幼稚園
菜摘
双子
すべて知られている可能性もある。
下手に逃げれば追われる。
なら表面上は日常を続けながら内側だけを固める。
「家の鍵、全部確認しろ」
『したわ』
「窓も」
『閉めてある』
「チャイム鳴っても出るな」
『分かってる』
「誰か来たら俺に電話」
『分かってるってば』
菜摘の声が少し強くなる。
次の瞬間、小さく息を吐く音が聞こえた。
『……拓海』
「何」
『悠馬は大丈夫よ』
拓海の指に力が入る。
「分かってる」
『あなたが迎えに行くんでしょ』
「ああ」
『なら、大丈夫』
返事ができなかった。
”自分が行けば大丈夫”
そう言い切れるほど、
今の拓海には余裕がなかった。
相手が何者なのか。
どこまで手を伸ばせるのか。
何を目的としているのか。
まだ分からない。
ただ一つ分かるのは。
”悠馬を見ている”
それだけだった。
「……帰ったら連絡する」
『待ってる』
電話が切れる。
拓海は携帯を下ろした。
廊下の向こうから足音が近付く。
龍平
分厚い資料を抱えている。
目の下には濃い隈。
昨夜から眠っていない顔だった。
「佐伯さん」
「何か出たか」
拓海の声は低い。
龍平は一瞬だけ息を整えた。
「出ました」
資料を持ち上げる。
「GL日本支部から、欧州へ繋がる送金経路です」
拓海の視線が資料へ落ちる。
「公安が解析しました」
龍平の目には、疲労とは別の光があった。
「これを辿れば」
一拍。
「奴らの本体へ届くかもしれません」
拓海は黙って資料を見た。
欧州
本部
中枢
そんな言葉が、紙の上へ並んでいる。
だがその頭に浮かんだのは
見知らぬ海外の建物でも
巨大な犯罪組織でもなかった。
白いワゴン
幼稚園
悠馬
そして、
泣きながら座っていた、美咲の顔だった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




