第五百六十八話 「確信(スイッチ)とは、散らばった『気のせい』が一つに重なった瞬間、大型犬の野性が『……悠馬を見ている』と静かに牙を剥く現象のことである」という話
雪森は子供が喜ぶ夕飯はハンバーグくらいしか思い浮かばなかった(´・ω・`)
その日は、雨上がりの蒸し暑い夕刻だった。
午後まで降り続いていた雨はようやく止み、濡れたアスファルトが西日に白く照らされている。
世田谷署、合同捜査本部。
General Logisticsの捜査は膠着したままだった。
組織の輪郭は見えている。
だが、その中心へ届く最後の一枚だけが見つからない。
拓海は机へ積まれた資料を閉じ、小さく息を吐いた。
「今日はここまでにしましょう」
向かいで龍平が画面から目を離さずに言う。
「お迎えの時間でしょう」
「あぁ」
腕時計を見る。
予定より少し遅い。
「悪ぃ。続き頼む」
「分かりました」
拓海は上着を掴み、捜査本部を後にした。
廊下を歩きながらも、頭の隅には数日前から続く違和感が残っている。
黒い車。
だが、証拠は何もない。
だから自分でも考えすぎだと言い聞かせるしかなかった。
住宅街へ入る。
雨上がりの空気がむっと肌へまとわりつく。
ママチャリを漕ぎながら、拓海はいつもの角を曲がった。
その瞬間だった。
低いエンジン音。
路地の脇に、一台の黒いセダンが停まっていた。
珍しくもない国産車。
だが停車位置だけが不自然だった。
正門は見えない
職員室も見えない
建物の隙間から、園庭だけが見える。
拓海は何気ない顔のまま、自転車を走らせる。
直接は見ない。
道路脇の店のガラスへ映る車体だけを確認する。
スモークガラス
運転席に一人
顔までは見えない
その時だった。
園庭の奥を、悠馬が駆け抜ける。
車内の影が、ゆっくりと動いた。
拓海の表情が消える。
悠馬が左へ
影も左へ
先生に呼ばれ、今度は右へ走る
影も同じように身体を向ける
偶然では説明できない。
三度目。
悠馬が園舎へ向かった瞬間
運転席の人影は、明らかに前へ身を乗り出した。
”見ている”
拓海の中で、何かが切り替わった。
ブレーキを握る。
甲高い音を立て、自転車をその場へ投げ出す。
「待て!」
全力で駆け出した。
二十メートル
十五
十
車内の影がハンドルを切る。
あと少し。
そう思った瞬間。
黒いセダンは静かに発進した。
タイヤを鳴らすこともない。
最小限の加速だけで距離を外し、路地を抜ける。
「クソッ!」
拓海はなおも追う。
角を曲がる。
しかしセダンは幹線道路へ合流し、帰宅時間の車列へ紛れ込んだ。
タクシー
配送トラック
白いワゴン
数秒後には完全に見失う。
拓海は道路脇で足を止めた。
荒い息を整えながら、車が消えた方向を睨む。
ナンバーは見えない。
運転手の顔も分からない。
証拠は何一つ残っていない。
それでも
胸の奥の刑事としての感覚だけは、はっきり告げていた。
あの車は、幼稚園を見ていたんじゃない。
”悠馬を見ていた”
「……偶然じゃ、ねぇな」
小さく呟き、拓海は振り返る。
幼稚園の門では、何も知らない悠馬が先生と笑っていた。
いつもと変わらない夕方。
変わってしまったのは、拓海だけだった。
「父さーん!」
門の前で待っていた悠馬が、いつものように駆け寄ってくる。
「おう」
拓海はしゃがみ込み、小さな身体を受け止めた。
「今日も元気だな」
「うん!」
無邪気な笑顔。
さっきまで見ていた黒いセダンなど、この子は知らない。
知らなくていい。
「帰ろ!」
「ああ」
悠馬を荷台へ乗せ、ヘルメットを被せる。
顎紐を締めたところで、ふと手が止まった。
いつもより、少しだけ長く確認する。
「父さん?」
「あ、悪ぃ」
慌てて手を離し、自転車へ跨がる。
「今日は寄り道なしな」
「えー」
「真っ直ぐ帰る」
「アイス!」
「今日はダメ」
「ハンバーグなら?」
「それは母さんに頼め」
「じゃあ頼む!」
拓海は小さく笑う。
その笑顔は、さっきまでより少しだけ硬かった。
帰り道。
住宅街を抜けながら、拓海は何度もバックミラー代わりに店の窓や車のガラスへ視線を走らせた。
後ろを走る車
交差点
歩道
反射する窓
尾行はない
それでも警戒だけは解けない。
”あの車は偶然ではない”
そう思った瞬間から、いつもの帰り道は別の景色へ変わってしまっていた。
「ただいま!」
玄関を開けると、悠馬が真っ先に飛び込んでいく。
「おかえり」
菜摘の声が台所から返ってきた。
拓海は扉を閉める
鍵を掛ける
……もう一度、ノブを回す
施錠を確認する
無意識だった。
「父さん?」
悠馬が不思議そうに振り返る。
「何でもねぇ」
靴を脱ぎ、部屋へ入る。
双子はリビングで仲良く遊び、テレビからは子供向け番組の音楽が流れていた。
いつもの夕方
味噌汁の香り
フライパンの音
何も変わらない。
変わってしまったのは、自分だけだった。
「拓海」
菜摘が顔を出す。
「手、洗ってきて」
「ああ」
返事をしながら、窓へ目が向く。
駐車場
道路
黒い車はいない。
「……」
その視線を、菜摘は黙って見ていた。
夕食はハンバーグだった。
「やったー!」
悠馬が歓声を上げる。
「父さんもハンバーグ好きだもんな!」
「そうだな」
「だから僕も好き!」
「俺の真似か」
「うん!」
「ガハハ」
笑う
笑っているのに、
車のブレーキ音が外から聞こえるたび、拓海の視線は窓へ向いた。
食器が触れ合う音。
双子の笑い声。
菜摘は何も言わない。
ただ、夫の様子だけを静かに見ていた。
子供たちを寝かせたあと
リビングには二人だけが残っていた。
菜摘は温かいお茶を二つ淹れ、拓海の前へ置く。
「ありがとう」
拓海は湯飲みを持つ。
だが、一口も飲まない。
「拓海」
静かな声だった。
「今日、何かあった?」
「いや」
即座に答える。
「何も」
菜摘は首を横へ振った。
「嘘」
拓海は笑う。
「何でだよ」
「あなたが嘘をつく時は、笑うから」
言葉が止まる。
「帰ってきてから何度窓を見た?」
「……」
「玄関の鍵も二回確認した」
「癖だ」
「悠馬のヘルメットも」
拓海は黙った。
菜摘は責めてはいない。
ただ、心配している。
何年も一緒に暮らしてきた夫の、小さな変化を見逃さなかっただけだ。
「仕事?」
「……まぁな」
「違う」
きっぱりと言う。
「仕事だけじゃない」
静かな沈黙が落ちた。
「子供のこと?」
拓海の指先が止まる。
その一瞬で十分だった。
菜摘は小さく息を呑む。
「悠馬?」
「……まだ何も起きてねぇ」
その言葉は、自分へ言い聞かせるようでもあった。
「でも」
拓海は深く息を吐く。
「今日、黒い車を見た」
菜摘は黙って続きを待つ。
「前に話に出てた車かもしれねぇ」
「かも?」
「ああ」
「確信はない」
「でも」
拓海はゆっくり顔を上げた。
「俺には、悠馬を見てるように見えた」
部屋が静まり返る。
時計の秒針だけが時を刻んでいた。
菜摘は俯き、小さく拳を握る。
”怖い”
それでも泣かなかった。
「……どうするの?」
「しばらく送り迎えは全部俺が行く」
「うん」
「毎日、帰る道も変える」
「うん」
「子供たちだけでは外へ出さない」
菜摘は頷く。
そして、拓海を真っ直ぐ見つめた。
「一つだけ約束して」
「何だ」
「私には隠さないで」
拓海は目を閉じた。
「怖がらせたくなかった」
「もう十分怖いわ」
菜摘は静かに笑う。
「でも、知らない方がもっと怖い」
その言葉に、拓海は小さく肩を落とした。
「……悪かった」
「うん」
菜摘はそっと拓海の手へ自分の手を重ねる。
「一人で守ろうとしないで」
拓海は何も答えられなかった。
その温もりだけが、張り詰めていた胸の奥を少しだけ緩めていく。
世田谷署、合同捜査本部。
時計は午後十時を回っていた。
龍平は一人、モニターへ向かったままキーボードを叩いていた。
扉が開く。
「……佐伯さん?」
帰宅したはずの拓海が立っていた。
「悪ぃ。少し付き合え」
その声を聞いただけで、龍平は手を止める。
拓海はポケットから一枚のメモを取り出した。
車種
色
停車位置
見えたナンバーの下二桁
追跡した時間
すべて走り書きだった。
龍平は黙って受け取る。
「確認した」
拓海は短く言った。
「あの車ですか」
「ああ」
「結果は」
拓海は椅子へ腰を下ろし、深く息を吐いた。
「悠馬を見てた」
部屋の空気が静かに変わる。
龍平は拓海から視線を外さなかった。
「確信ですか」
「ああ」
「理由を」
「悠馬が動くたびに、車内の人間も動いた」
拓海はゆっくりと言葉を選ぶ。
「一回じゃねぇ。三回だ」
「俺に気付いた途端、逃げた」
龍平は数秒だけ黙り込んだ。
その沈黙は疑っているからではない。
必要な情報を整理していた。
「証拠はありませんね」
「あぁ」
「ナンバーも」
「見えねぇ」
「顔も」
「見えねぇ」
龍平は静かに頷いた。
「十分です」
拓海が顔を上げる。
「……いいのか?」
「現時点で犯人を断定はしません」
龍平はメモを机へ置いた。
「ですが。」
眼鏡の位置を押し上げる。
「偶然という仮説は、優先順位を下げます」
拓海は思わず笑う。
「お前らしい言い方だな」
「仕事ですから」
龍平はキーボードを引き寄せた。
画面が切り替わる。
世田谷区の地図
幼稚園周辺
防犯カメラ
交通カメラ
Nシステム
「目撃時刻を中心に洗います」
「店舗の防犯映像も」
「交通量から逃走経路も絞れます」
「同一車両とは限りません」
「車両を替えている可能性もあります」
拓海は腕を組む。
「そこまでやるか」
「General Logisticsなら」
龍平は迷いなく答えた。
「やります」
静かな部屋へ、キーボードを叩く音だけが響き始める。
「佐伯さん」
「ん?」
「今日からです」
「何が」
「一人で動かないでください」
拓海は少しだけ苦笑した。
「命令か?」
「お願いです」
龍平は珍しく拓海を真っ直ぐ見た。
「相手の目的は、まだ分かっていません。」
「佐伯さん自身なのか。」
「悠馬くんなのか。」
「あるいは、その両方なのか。」
「何一つ断定できません。」
「だからこそ。」
「こちらも、先に動きます。」
拓海はゆっくりと頷いた。
「ああ」
「頼む」
龍平はそれ以上何も言わなかった。
ただ静かに解析を始める。
日常へ落ちた違和感はようやく捜査対象へ変わった。
同じ頃。
ヨーロッパ某所、
窓のない部屋。
「対象に行動変化を確認」
報告書が机へ置かれる。
ヴィクターはページをめくりながら尋ねた。
「内容は」
「対象は監視車両へ接近。」
「追跡行動を確認しました。」
「認識された可能性があります。」
短い沈黙。
「車両を変更しろ」
「はい」
「担当も替えますか」
「替えろ」
ヴィクターは資料を閉じた。
「同じ顔を二度見せるな」
「了解しました」
部下が一礼し、部屋を出る。
ヴィクターは暗くなったモニターへ目を向けた。
そこには
幼稚園から帰る親子の姿が映っている。
笑う悠馬
その隣で笑い返す拓海
穏やかな夕暮れ。
何も起きてはいない。
誰も傷付いてはいない。
だが
その平穏は、もう監視の外にはなかった。
ヴィクターは静かに呟く。
「勘のいい男だ」
口元が僅かに緩む。
「……だが、まだ遅い」
画面が暗転する。
その頃、
世田谷署では、龍平が幼稚園周辺の映像を一つずつ洗い始めていた。
誰にも気付かれないまま始まった監視は
刑事と組織
その静かな駆け引きへと、確かに姿を変え始めていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
いいねや感想など、いつも励みになっています。
この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




