第五百六十二話 「警告(ログ)とは、脅迫ではない。檻で協力者が消される惨劇を見てきた少女が、優しい刑事・拓海だけは死なせたくないと、命懸けで放つ警鐘のことである」という話
あと10話くらいでラストです!やったーー
郊外にある警察病院。
夜になっても、廊下の白い照明は明るすぎるほどに明るかった。
消毒薬の匂い。
一定の間隔で響く機械音。
時折、足早に通り過ぎていく看護師。
その全てが、美咲の置かれている状況を否応なく突きつけていた。
保護された時、美咲はひどく衰弱していた。
長期間にわたる拘束。
度重なる移送。
十分な食事も水分も与えられていなかった形跡。
身体には、古い傷と新しい傷が混在していた。
幸い、命に別状はない。
だが、それはすぐに話を聞けるという意味ではなかった。
病室の前で、白衣を着た医師が静かに首を横へ振った。
「脱水症状に加えて、身体的にも精神的にも強い負荷がかかっています」
医師の視線が、龍平と拓海の間をゆっくりと動く。
「目を覚ましても、長い時間話せる状態ではありません。
正式な事情聴取は、少なくとも今日のところは控えてください」
「……分かりました」
龍平が頭を下げた。
普段と変わらない、平坦な声だった。
だが、その横顔からは血の気が引いている。
拓海は何も言わず、閉じられた病室の扉を見た。
二十年以上前に消えた母親。
突然現れた、妹だという少女。
ようやく見つけたと思ったその相手は、今、扉一枚を隔てた向こうで機械に繋がれている。
龍平の胸の内を、拓海が完全に理解できるはずもない。
それでも
今の龍平に余計な言葉をかけるべきではないことくらいは分かった。
医師が立ち去った後も、二人はしばらくその場に残った。
やがて龍平が口を開く。
「署へ戻る」
「ここにいなくていいのか」
「ここにいても、今の俺にできることはない」
龍平は病室の扉を見た。
ほんのわずかにその目が揺れる。
「なら、できることをする」
拓海は少しだけ眉を上げた。
「寝ろよ」
「お前に言われたくない」
「俺は寝てる」
「嘘をつけ」
龍平はそう言って歩き出した。
拓海は一度だけ病室を振り返り、その後を追った。
*************
翌朝、
世田谷署内に設けられた会議室には、普段よりも多くの人間が集められていた。
世田谷署
成城署
警視庁本部から派遣された捜査員
そして、国際犯罪との関連を確認するために呼ばれた公安部外事系統の担当者
ホワイトボードには、いくつもの資料が並べられていた。
美咲が保護された倉庫。
倉庫を借りていたペーパーカンパニー。
現場付近の防犯カメラに残されていた配送車両。
その車両の登録名義。
さらに、その先に連なる複数の法人。
どれも短期間だけ存在し、役目を終えたように消えている。
そして、その一角には
龍平がこれまで個人的に集めてきた、二十年前の資料が並んでいた。
母、松本薫の失踪記録。
海外へ渡った可能性を示す古い記録。
医療支援団体。
物流会社。
名義の異なる複数の法人。
だが、その中に。
今回と同じ名称があった。
【General Logistics】
会議室の中で、龍平が一枚の資料を掲げる。
「今回、美咲さんが保護された倉庫を借りていた法人は、三年前に設立されています」
淡々とした声。
「登記上の代表者は既に所在不明。事業実態もありません。
ただし、倉庫周辺で確認された車両の管理会社を辿ると、別の物流会社に行き着く」
龍平は、ホワイトボード上の線を指でなぞった。
「その会社も、昨年解散しています」
一人の捜査員が資料をめくる。
「使い捨てか」
「その可能性が高いと思います」
龍平は続けた。
「そして、同じ社名、あるいは非常によく似た社名を持つ法人が、複数の国で確認されている」
公安部の捜査官が顔を上げた。
「General Logistics」
「はい」
龍平は、二十年前の資料を示した。
「母が失踪する直前、関係していた可能性がある医療支援団体。
その物資輸送を請け負っていた会社にも、この名称が使われていました」
会議室が静かになる。
拓海は腕を組み、ホワイトボードを見ていた。
今回の拉致事件。
二十年前の失踪。
複数国に点在する、同名の会社。
それだけでは、まだ一つの事件だとは言えない。
偶然の可能性もある。
名前だけを借りた、無関係な会社かもしれない。
だが、
偶然として片づけるには、重なる点が多すぎた。
公安部の捜査官が口を開く。
「海外で確認されている同名法人の多くは、設立から数年以内に閉鎖されている。
代表者も名義貸しと思われる人物が多い」
「何を運んでる会社なんですか」
拓海が聞いた。
捜査官は拓海を見る。
「表向きは、医療物資、機械部品、食品、衣料品。法人ごとに違います」
「裏は」
「分からない」
即答だった。
「分からないから、今まで一つの組織として認識されていなかった」
拓海は小さく息を吐いた。
一つ一つは、どこにでもある小さな会社。
設立され、
何かを運び、
消える。
その全てを離れた場所から見れば、初めて一本の線が浮かび上がる。
龍平が机の上へ資料を置いた。
「現時点では、裁判所に強制捜査を認めさせられるほどの証拠はありません」
「だろうな」
世田谷署の上司が低く答える。
「だが、調べる理由にはなる」
公安部の捜査官が手帳を閉じた。
「本庁側でも、関連法人について予備調査を開始します。海外当局への照会も検討する」
龍平の指先が、机の下でわずかに動いた。
二十年間。
家族の中だけに残されていた失踪。
龍平が一人で追ってきた過去。
証拠にならない資料。
執着と呼ばれても仕方のなかった調査。
それがようやく
日本警察の正式な照会対象になった。
事件として
調べられる場所まで来た。
だが龍平は、喜ばなかった。
美咲はまだ病院にいる。
母親は見つかっていない。
何一つ終わってはいない。
龍平は、静かに頭を下げた。
「お願いします」
*************
夜。
病院へ戻った拓海は、病室の外に置かれた椅子に座っていた。
龍平は署に残っている。
過去の資料と今回の法人登記を照合し直すと言い、結局一度も病院へ戻ってきていない。
拓海の手には、冷めた缶コーヒーが握られていた。
飲む気もないまま買い、そのまま一時間近く持っている。
病室の扉が、静かに開いた。
中から出てきた看護師が拓海を見る。
「目を覚ましました」
拓海は立ち上がった。
「話せますか」
「短時間なら。ただし、質問はしないでください」
「分かりました」
「興奮させないように」
「善処します」
看護師は少し不安そうな顔をした。
拓海は病室へ入った。
照明は落とされていた。
窓の外には、遠くの街明かりが見える。
ベッドの上で、美咲が目を開けていた。
鼻には酸素を送る細い管。
腕には点滴
顔色はまだ青白い
拓海の姿を見た瞬間。
美咲の肩が、びくりと震えた。
「大丈夫だ」
拓海は入口で立ち止まった。
近づかない。
「ここは病院だ」
美咲の目が、部屋の中を忙しなく動く。
扉
窓
点滴
拓海
逃げ道を探している。
「外には警察がいる」
拓海はゆっくりと椅子を引いた。
ベッドから少し離れた場所に座る。
「誰も入ってこねぇよ」
美咲は返事をしなかった。
呼吸だけが浅く速い。
拓海はそれ以上話しかけず、ただ椅子に座っていた。
しばらくして、
美咲の視線が、拓海の顔へ戻る。
「……刑事さん」
細い声だった。
「おう」
「……助けて、くれた……」
「俺だけじゃねぇよ」
拓海は小さく笑った。
「お前が自分で逃げてきたんだ」
美咲の目から、ゆっくりと涙がこぼれた。
拓海は何も言わない。
泣くなとも、
大丈夫だとも言わなかった。
大丈夫ではないのだ。
命は助かった
だが、美咲が受けたものまで消えたわけではない。
美咲の唇が震える。
「……逃げて」
拓海は少しだけ首を傾げた。
「何から」
「……ここから」
「病院から?」
美咲は首を横に振った。
「私から……」
声がかすれる。
「私のことを……調べないでください」
拓海の表情から、わずかに笑みが消えた。
「どうしてだ」
美咲は布団を握った。
指先が白くなるほど、強く。
「助けてくれた人が、いました」
ぽつり
ぽつりと
途切れながら、言葉が落ちる。
「逃がそうとしてくれた人」
「食べ物をくれた人」
「警察に言おうとした人」
美咲の呼吸が乱れ始める。
拓海は椅子から動かなかった。
「みんな……いなくなった」
涙が頬を伝う。
「次の日には、いなくなって……」
「美咲」
「消されたんです」
美咲は拓海を見た。
恐怖に濡れた目。
自分の身を案じている目ではなかった。
「だから、逃げてください」
「……」
「刑事さんも、消される」
病室の中に、機械音だけが残った。
拓海はしばらく、美咲を見ていた。
やがて、静かに口を開く。
「そうか」
美咲の目が揺れる。
「だったら、余計にやめられねぇな」
「……え」
「そいつらが今まで、助けようとした奴を消してきたってんなら」
拓海は膝に肘を置き、少しだけ身を乗り出した。
「今度は、消せなかった奴が一人くらいいてもいいだろ」
美咲が息を止める。
「でも……」
「悪いな」
拓海は困ったように笑った。
「俺、そういう話を聞いた後で逃げられるほど、頭良くねぇんだ」
「死んじゃう……」
「死なねぇよ」
「分からないじゃないですか」
「分からねぇな」
あっさりと答えた。
美咲の顔が歪む。
拓海は笑うのをやめた。
「でも、お前が悪いわけじゃない」
美咲の目が見開かれる。
「助けようとした奴が消されたのも」
拓海は続けた。
「お前が助けを求めたせいじゃねぇ」
「……」
「消した奴が悪い」
単純な言葉だった。
理屈も
慰めもない。
ただ、
美咲が長い間、自分へ向け続けてきた罪悪感を、正面から否定する言葉だった。
美咲の目から、再び涙があふれた。
「だから今は寝ろ」
拓海は椅子の背にもたれた。
「話は元気になってからでいい」
美咲は泣きながら、ゆっくりと目を閉じた。
拓海はその場を動かなかった。
呼吸が落ち着くまで。
眠りに落ちるまで。
ただ、そこにいた。
*************
翌朝。
日本警察側の捜査は、静かに動き始めた。
龍平は、二十年前の母親の失踪資料を本庁の照会記録と突き合わせた。
美咲の保護現場に繋がっていた法人。
その役員
住所
送金先
既に閉鎖された関連会社。
古い資料の中に残されていた名称と、今回の事件に現れた名称。
二十年の時間を隔てた二つの事件から、同じ形の影が浮かび始める。
公安部は、国外に存在する同名法人と関連団体の調査に入った。
まだ強制捜査ではない。
表向きは、登記と資金の流れを確認するだけ。
だが、
個人の疑念だったものが、組織の調査へと切り替わった意味は大きい。
拓海は、机に座って資料を眺めるより先に外へ出た。
美咲が見つかった倉庫周辺。
過去に立ち寄った可能性のある施設。
配送車が目撃された道路。
路地裏
小さな店
夜間だけ人の出入りがある建物
正式な証拠にはならない、街の違和感を一つずつ拾い始めた。
美咲は、まだ全てを話すことができない。
場所の名前を聞けば息が乱れ
顔を思い出そうとすれば、身体が震える。
出てくるのは、断片だけだった。
壁の色。
車の音。
薬品の匂い。
外国語。
片方の腕に傷がある男。
誰かが呼んでいた、短い名前。
それらは一つ一つでは、意味を持たない。
だが龍平は過去の資料と照合し
拓海は街で聞いた話と重ね
公安は国外の記録と繋げた。
少しずつ。
断片は形を持ち始めていた。
その中心に何があるのか。
まだ誰にも見えてはいない。
ただ
佐伯拓海という男が。
普段ならば、自分一人の判断では踏み込まない領域へ。
確かに一歩足を踏み入れた。
その、たった一つの異常は
日本から遠く離れた場所で
既に、別の監視者によって観測されていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




