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第五百五十四話 「変革(パラダイム)とは、綺麗すぎる過去を疑い、相棒の野生の違和感を起点に、奪われた現在(美咲)を取り戻すため、全ての規律を飛び越えて走り出す現象のことである」という話

やっと少し進んだかなぁ

【世田谷・美咲の部屋】

~ 昨日まで人がいた、綺麗すぎる空白~


「昨日まで、確かにここに住んでいました」


施設職員からその連絡を受けた一時間後、

佐伯拓海と松本龍平は、世田谷区内にある古いアパートの一室へ臨場していた。


築年数の経った、二階建ての小さな建物。

外壁にはところどころ細い亀裂が走り、錆びた階段は人が上るたびに乾いた音を立てる。


周囲には同じようなアパートと住宅が並び、少し歩けば商店街も駅もある。


人が消えるには目立ちすぎる場所。


だが。

人が一人いなくなっても、誰も深く気に留めないには、十分すぎるほど普通の場所でもあった。


「こちらです」


支援団体の職員が、震える手で鍵を開ける。


扉がゆっくり開いた。


「昨日、確認した時には……」


職員は言いかけて、口を閉じた。

言葉にする必要はなかった。


部屋は空だった。


”完全に”


玄関には靴がない。

傘もない。

小さな台所には皿も鍋もなく、冷蔵庫の中にも何も残されていない。


クローゼットは開いたまま。

ハンガーが数本、揺れている。


引き出しも空。

棚も空。

洗面台からは歯ブラシも化粧品も消えていた。

捨てられたゴミすらない。


まるで

最初から誰も暮らしていなかったように。


龍平は手袋をはめながら、室内を見渡した。


「家賃の契約は」


「団体名義です」


職員が答える。


「契約期間は」


「あと半年あります」


職員は端末を見る。


「……ありません」


「転居の相談は」


「それも、ありません」


龍平が職員を見る。


「……未成年ですよね。」


「高校三年生です。」


「契約者本人からの連絡は。」


「一切ありません。」


龍平は玄関付近にしゃがみ込む。


床。

靴箱。

扉の内側。


目立った破損はない。

無理に連れ出された形跡も、争った跡もない。


「最後に本人と話したのは」


「三日前です」


「内容は」


「学校のことです」


「何か変わった様子は」


職員は考え込んだ。


「少し……疲れているようには見えました」


「それはいつもと違いましたか」


「分かりません」


「最近、誰かに見られている気がすると話していたそうですね」


職員の表情が曇る。


「はい」


「でも、詳しく聞いても」


「気のせいかもしれない、と」


「警察への相談は勧めましたか」


「勧めました」


「本人が断った?」


「はい」


「大げさにしたくないって」


龍平は小さく頷いた。


大げさにしたくない。

迷惑をかけたくない。

自分さえ我慢すればいい。


そういう言葉は、事件が起きた後で何度も聞いた。

何も起きなかった時には、誰も覚えていない。


だが

何かが起きた後では…


その一言が、誰にも拾われなかった最後の警告になる。


「近隣への聞き込みを」


龍平が後方の刑事へ指示を出す。


「昨夜の二十時以降」


「車両、人の出入り、物音」


「僅かなことでも全部です」


「はい」


「防犯カメラも」


「アパートだけでなく、通り、コンビニ、駅、駐車場」


「車両が抜けられるルートを全て」


刑事たちが動き始める。

室内にシャッター音と、低い話し声が増えていく。


その中で

拓海だけが、まだ何もしていなかった。


玄関の中央で、

缶コーヒーを握ったまま

部屋を見ている。


龍平は一度だけ拓海へ視線を向けた。


朝から何も食べていないはずだ。

それでも、

いつものように「腹減った」とも言わない。


何も触らず。

何も聞かず。


ただ。

部屋の奥を見ている。


「佐伯さん」


返事はない。


「佐伯さん」


「……ん」


拓海はゆっくり歩き始めた。


机。

小さな本棚。

カーテン。

壁。

窓。


一つずつ。

そこにまだ何かが残っているかのように、じっと見ていく。


「何かありますか」


龍平が聞く。


拓海は答えない。

机の上には、何もない。

埃も薄い。

昨日まで使っていたはずなのに。


持ち主が消えた直後の部屋にしては、あまりにも整っている。


「掃除をしたのでしょうか」


龍平が職員へ尋ねる。


「いえ」


「私たちは何も」


「本人が?」


「美咲さんは、元々綺麗好きでした」


綺麗好き。


その一言で説明できる。


確かに

それだけなら何もおかしくない。


龍平は資料をめくった。


美咲の経歴。


アルバイト。

収入。

銀行口座。

支援記録。


どれも問題はない。

派手な借金もない。

事件歴もない。

人間関係の大きな揉め事もない。


表面だけを見れば。

ごく普通に自立しようとしていた、若い女性の暮らしだった。


だが

この部屋には。


暮らしを捨てた人間の乱れがない。


急いで消えた痕跡も。

未練も。

迷いも。

全部。


”最初から消える日を知っていた”ように。


綺麗に持ち出されている。


拓海が窓際で止まった。

カーテンを指先で少しだけ動かす。


外には細い道路。

向かいの建物。


電柱。

駐車場。


「龍」


低い声だった。

龍平は顔を上げた。


一瞬。

聞き間違いかと思った。


拓海はこれまで、ほとんど龍平を名前で呼ばなかった。


松本。

お前。

バカ。

時々、龍平。


だが、今の声は。

余計なものが何もなかった。


「はい」


「これ」


拓海は部屋を見たまま言った。


「またですか」


「ああ」


「何が気になります」


拓海はしばらく黙った。


やがて。


「ヤダ」


龍平は眼鏡を押し上げた。


「どこがですか」


「知らん」


「……」


「でもヤダ」


「それでは分かりません」


「俺も分かんねぇ」


「では」


「だから見てんだろ」


拓海は机へ戻る。


引き出し。

床。

壁。

空っぽの棚。


どれも

目に見える異常はない。


「綺麗すぎるからですか」


龍平が聞く。


「それもある」


「それ以外は」


「知らん」


「……」


「なんか」


拓海は眉間に皺を寄せた。


「この部屋」


「美咲の部屋じゃねぇみたいなんだよな」


龍平が室内を見回す。


「本人の荷物がないからでしょう」


「違う」


「では」


「暮らしてた感じはある」


「昨日まで人がいた」


「でも」


拓海は言葉を探した。


「ここを自分の場所だと思ってた感じがしねぇ」


龍平は黙った。


それは

証拠ではない。


床に残った傷でも。

指紋でも。

書類でもない。


ただの感覚。


「すぐ出られるようにしてた」


拓海が呟く。


「ずっと」


「何かあったら」


「全部持って」


「すぐ消えられるように」


「……根拠は」


「ねぇ」


拓海は即答した。


「でも」


窓の外を見る。


「まだ近い」


龍平の表情が変わる。


「何がです」


「美咲」


「何故そう思うんです」


「分かんねぇ」


「佐伯さん」


「昨日だろ」


拓海が振り返る。


「出てったの」


「はい」


「荷物全部持って」


「男二人と」


「はい」


「車で」


「そうです」


「だったら」


拓海は窓の外を睨んだ。


「まだ行ける」


「佐伯さん」


「まだ間に合う」


「待ってください」


龍平は拓海の前へ回る。


「現在、周辺への聞き込みを開始しています」


「防犯カメラも確認中です」


「車両が特定できれば、すぐに」


「すぐっていつだよ」


拓海の声が変わった。


怒鳴ってはいない。


だが、

いつもの軽さが消えている。


「一時間後か」


「二時間後か」


「今日中か」


「それとも明日か」


「……」


「その間にも動くぞ」


龍平は答えない。

答えられない。


正しい手順なら、


周辺映像を集める。

車両を特定する。

所有者を割り出す。


令状。

応援。

手配。


それが最短だ。


分かっている。

分かっているからこそ

龍平は止めなければならない。


「証拠がありません」


「分かってる」


「行き先も」


「知らん」


「車両も」


「知らん」


「相手の人数も」


「知らん」


「それで、どこへ行くつもりです」


拓海は口を開きかけた。

閉じた。

また部屋を見る。


玄関。

窓。

道路。


その時。

拓海の視線が止まった。


机の横。

床の端。


「龍」


「はい」


「ここ」


龍平が近づく。


フローリングに、細い黒い筋。

家具を引きずった跡にも見える。


龍平はしゃがみ込む。


「何です」


「知らん」


「またですか」


「でも新しい」


龍平は指先で触れずに確認する。


幅。

向き。

位置。


机の下から玄関方向へ続いている。

何か重いものを引いた跡。

荷物。

大型のケース。


あるいは。


「鑑識」


龍平が呼ぶ。


すぐに担当者が来る。


「この痕跡を」


「いつ頃のものか確認してください」


「了解」


拓海は既に別の場所を見ていた。


玄関の壁。

低い位置に、僅かな擦れ。

床にも。

一定間隔の細い傷。


「キャリーケース」


龍平が言った。


「大型ですね」


「一つじゃねぇ」


拓海が答える。


「二つ」


「何故」


「幅が違う」


龍平は見た。


確かに。

僅かに異なる二種類の跡がある。


一つは玄関へ。

もう一つは途中で途切れている。


「荷物を全部持って出た」


龍平が呟く。


「本人の荷物と」


「もう一つ」


拓海が言う。


「誰かの荷物か」


「美咲を運ぶための何かか」


龍平の脳内で。

散らばっていた点が、僅かに線になる。


だが、

まだ足りない。

確定できない。


その時。

外から刑事が駆け込んできた。


「松本さん」


「近隣の住人から証言です」


「昨夜、二十三時頃」


「黒いワンボックスが、建物の前に停車」


「男二人」


「女性一人」


「女性は自分で歩いていたそうです」


「車両のナンバーは」


「見ていません」


「進行方向は」


「南」


龍平はすぐに地図を開く。


南。

幹線道路。

首都高速。

複数の出口。


「カメラは」


「一つ、確認できそうです」


「すぐに」


「はい」


刑事が走り出す。

拓海は地図を覗き込んだ。


「南」


「ええ」


「こっち」


指を置く。


「何があります」


「知らん」


「……」


「でも」


拓海は地図を睨む。


「駅じゃねぇ」


「車で出たなら、駅へ向かう必要はない」


「高速ですか」


「多分」


「多分で動くつもりですか」


「ああ」


「佐伯さん」


龍平は立ち上がった。


「待ってください」


拓海は上着を掴む。


「待てねぇ」


「応援を」


「呼べ」


「令状を」


「取れ」


「なら」


「お前はやれ」


「佐伯さんは」


「俺は行く」


「どこへです」


「南」


「範囲が広すぎます」


「分かってる」


「相手が武装している可能性も」


「あるだろうな」


「一人で行くつもりですか」


「ああ」


「正気ですか」


拓海は龍平を見る。

少しだけ笑った。


「お前にだけは言われたくねぇ」


「私は今、止めています」


「止めてねぇよ」


「止めています」


「お前」


拓海は龍平の胸元を指で軽く叩いた。


「もう追う顔してる」


龍平は言葉を失った。


自分では止めるつもりだった。


手順を守らせる。

応援を待たせる。

無謀な単独行動を阻止する。


それが自分の役割だと思っていた。


だが

胸の奥では。


拓海と同じ言葉が鳴っている。


待っていたら遅れる。


証拠が揃うまで。

車両が特定されるまで。

令状が出るまで。


全てが整った時には。

美咲は、もう次の場所へ移されている。


また

一歩遅れる。


龍平は奥歯を噛んだ。


「佐伯さん」


「ん」


「三分」


「長い」


「二分」


「一分」


「応援の連絡だけさせてください」


拓海は黙った。

龍平は携帯電話を取り出す。


「吉岡さん」


『はい』


「現場維持」


「室内の痕跡を全て採取」


「佐藤さんには南方向の防犯カメラを優先」


『分かりました』


「黒いワンボックス」


「昨夜二十三時前後」


「首都高速へ向かった可能性」


『松本さんは』


龍平は一瞬だけ拓海を見る。

既に玄関にいる。


「佐伯さんを追います」


『止めるんですか』


龍平は答えなかった。

拓海が扉を開ける。


「龍」


「はい」


「行くぞ」


龍平は通話を切った。


「分かりました」


二人は同時に部屋を出た。

錆びた階段を駆け下りる。


拓海が先。

龍平が後ろ。

これまでなら。

龍平は拓海の背中を止めるために追っていた。


規律へ戻すため。

危険から引き剥がすため。

間違いを正すため。


だが今は違う。


拓海の違和感を証拠へ変えるため。


拓海が見つけた、まだ名前のない道を。

現実の捜査線へ変えるため。


龍平は追っている。


「佐伯さん!」


「何だ!」


「単独行動は禁止です!」


「今さらかよ!」


「私も行きます!」


拓海が一瞬だけ振り返る。

口元が上がった。


「おせぇよ、バカ!」


「誰のせいですか!」


「知らん!」


「またそれですか!」


「勘だ!」


「勘で会話を終わらせないでください!」


二人の声が

古いアパートの狭い通路へ響く。


拓海は待たない。

龍平ももう止まらない。


昨日まで龍平は

証拠があるから動く刑事だった。


今初めて

相棒の違和感を証明するために、走っている。


【General Logistics・地下管理セクタ】

~予定調和から外れた二人の刑事~


同じ頃。

暗い地下室。

壁一面のモニターには、複数の監視映像が映し出されていた。


アパート。

周辺道路。

駅。

警察車両。

捜査員の動き。

全て予定通りだった。


警察は空になった部屋へ入る。

痕跡を採取する。

周辺へ聞き込みをかける。

防犯カメラを集める。

車両を特定する。


令状を取り、

追跡を始める。


その頃には

美咲は次の場所へ移されている。

さらにその次へ。


警察が一つ辿り着くたび

こちらは二つ先へ進む。


いつものことだった。


人間は証拠を与えれば、それを追う。

証拠を消せば、そこで止まる。


少しだけ古い枝を見せれば

それを本物の幹だと思い込む。


ヴィクターは

その仕組みを知り尽くしていた。


「管理者」


部下が声を上げる。


「対象二名」


「アパートから移動を開始しました」


「所轄への帰還か」


「いえ」


部下の指が止まる。


「佐伯拓海が、南方向へ単独移動」


「松本龍平も追従しています」


ヴィクターは顔を上げた。


「車両は特定されたか」


「まだです」


「防犯映像は」


「解析中」


「令状は」


「出ていません」


「では」


ヴィクターはモニターを見る。


走る二人。


一人は何の根拠も持たずに。

ただ真っ直ぐ南へ向かっている。


「何故動いた」


「不明です」


「現場で何か証拠を」


「確認できません」


ヴィクターは黙った。


警察組織は

証拠がなければ動かない。

動けない。


それが規律。

それが檻。


松本龍平は

その檻の中で、最も正確に動く人間だった。


冷静。

慎重。

論理。

証拠。


だから予測できた。


だが

今その秀才は。

佐伯拓海という、理由のないノイズを追っている。


「……なるほど」


ヴィクターの口元が僅かに動く。


「過去ではなく」


「現在へ重心を移したか」


「管理者?」


「枝を追うのをやめた」


モニターの中。


拓海が走る。

龍平が追う。


「母親の過去ではない」


「今、生きている妹を取り戻すつもりだ」


初めて予定された盤面から駒が外へ出た。


それも

一つではない。


野生の猟犬が飛び出しただけならまだいい。


問題はその後ろから

最も規律に忠実だったはずの秀才まで、同じ道を走り始めたこと。


「移送を早めろ」


ヴィクターが低く命じる。


「予定を二時間繰り上げる」


「しかし」


「今すぐだ」


「はい」


「監視網を拡大」


「南側の全ルート」


「警察車両だけではなく」


「あの二人を直接追え」


部下たちが動き始める。


ヴィクターはモニターを見つめた。


佐伯拓海。


理解できない。

証拠もなく。

利益もなく。

勝算もなく。


ただ

目の前に、助けを求められない人間がいる。


それだけで

全てを壊して走り出す。


「……厄介だな」


ヴィクターは初めて。


小さく呟いた。


「お前は」


「人間を、予定通りに諦めない」


モニターの中。


拓海と龍平は

もう角を曲がって見えなくなっていた。


二十年前の未解決事件を追う捜査は。


この瞬間完全に終わった。


ここから先は

今、生きている一人の少女を

先に奪い返した側が勝つ。


現在進行形の救出戦だった。


ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

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