第五百五十一話 「起動(システム)とは、大型犬の『たった一歩の異常』を観測した西欧の魔王と覗き魔が、世界中へ『全部調べろ』と命じる超法規的防衛現象のことである」という話
なんか話が大きくなってるけどどうしたものか。(´・ω:;.:...
【東京・ハミルトン日本支社】
~観測者は、今日も大型犬を監視している~
夜明け前
東京・丸の内。
まだ始業時間には少し早いハミルトン日本支社のオフィスは、照明も半分しか点いていなかった。
清掃員が廊下を歩く音だけが、静かなフロアへ規則正しく響いている。
そんな中。
最上階の執務室だけは、いつものように明かりが灯っていた。
「……さて。」
ジョージ・ウィリアムズは湯気の立つコーヒーを片手に、今日最初のメールを開く。
夜の間に各部署から送られてきた報告。
海外支社からの定例連絡。
経済指標。
資金移動。
投資案件。
そのどれもを、ほとんど流し読みの速度で処理していく。
数分後。
画面の右下に、新着通知が一件表示された。
送信元。
合同捜査本部・国際協力要請。
ジョージは思わず小さく笑う。
「おや。」
「今日はタクミが何をやらかしたのかな。」
ハミルトン日本支社は、表向きこそ民間企業だが、日本警察との協力案件も少なくない。
海外企業への照会。
現地法人への問い合わせ。
支援団体との橋渡し。
そんな依頼は日常茶飯事だった。
そして、その大半には。
”佐伯拓海”
あの男が関わっている。
「さてさて。」
ジョージは楽しそうにスクロールした。
「今度は迷子犬でも拾ったかな。」
「それとも海外駐在の大使に説教でも始めた?」
一人で笑いながら資料を読み進める。
だが。
二ページ目を開いたところで、
その笑みが、僅かに止まった。
「……?」
海外在住の未成年女性。
複数名義。
出生記録照会。
支援団体。
身元秘匿。
現地確認要請。
ジョージは、スクロールする指を止めた。
「……珍しい。」
もう一度、一ページ目へ戻る。
最初から読み直す。
一行ずつ。
今度は流し読みではなく、確認するように。
そして三ページ目。
四ページ目。
五ページ目。
読み終えた頃には。
さっきまで浮かんでいた笑みは、完全に消えていた。
部屋が静かになる。
ジョージはコーヒーカップを机へ置く。
カタン。
小さな音だけが響いた。
「……おかしい。」
その一言だけが、誰もいない執務室へ落ちた。
資料そのものに、不自然な点はない。
警察として極めて真っ当な協力要請だった。
海外にいる可能性のある未成年者。
身元確認。
現在地の照会。
支援団体への問い合わせ。
どれも手順としては間違っていない。
問題は。
依頼人が佐伯拓海だったこと。
「タクミが……?」
ジョージは椅子へ深く腰掛けた。
付き合いは、もう十年以上になる。
学生時代から知っている。
誰よりも、人のために動く男。
そして
誰よりも余計なことは、人に頼まない男。
海外照会を回すこと自体は珍しくない。
だが、
今回だけは違った。
問い合わせの範囲が広すぎる。
慎重すぎる。
何より
一つの少女を探すためだけに、
ここまで世界中へ照会を飛ばすことなど今まで一度もなかった。
ジョージは資料を閉じる。
窓の外を見る。
東京駅へ向かう始発電車が、ゆっくりホームへ滑り込んでいた。
「龍平君……か。」
資料の端には担当刑事の名前も記されている。
松本龍平。
世田谷署。
合同捜査本部。
そして。
照会理由。
親族確認。
「家族探しか。」
ジョージは静かに呟いた。
「なるほど。」
「だからタクミが動いている。」
そこまでは理解できる。
理解できるが……
どうしても一つだけ引っ掛かる。
ジョージは再び資料を開いた。
少女の情報。
名前は複数。
年齢だけ一致。
保護者不明。
支援団体を転々。
居住地変更多数。
血縁だけが一本の糸で繋がっている。
「……変だ。」
これではまるで…
”最初から誰かが存在を隠そうとしている”ようだ。
ジョージは無意識に机を指で叩く。
トン。
トン。
トン。
そのリズムが少しずつ速くなる。
「いや。」
「違う。」
「隠している、じゃない。」
「……消している。」
その瞬間だった。
ジョージの中で、点だった違和感が一本の線になる。
普通の家族探しではない。
普通の身元確認でもない。
拓海は
龍平は
まだ気付いていないかもしれない。
だが、何かに触れた。
しかも
触れてはいけないものへ。
ジョージは迷わなかった。
デスクの内線ではない。
国際専用回線を開く。
登録番号
一番上
Hamilton Hall
発信。
呼び出し音は、一度しか鳴らなかった。
『──ジョージ。』
低い声。
聞き慣れた親友の声だった。
「おはよう、エドワード。」
『日本は朝か。』
「君は真夜中だけどね。」
『要件は。』
無駄話はない。
昔から変わらない。
ジョージは苦笑しながら資料へ視線を落とす。
「タクミが動いてる。」
電話の向こうが、一瞬だけ静かになった。
『……何があった。』
「まだ全部は分からない。」
「ただ。」
「龍平君の家族を捜している。」
『家族?』
「母親じゃない。」
「その先だ。」
「海外にいる可能性のある十七歳の少女。」
「身元は複数。」
「名前も一定しない。」
「支援団体を転々としている。」
「タクミたちは、その所在確認を始めた。」
エドワードは何も言わない。
ジョージは続ける。
「単なる家族探しなら、ここまで広い照会は掛けない。」
「それに。」
「記録の消え方がおかしい。」
「出生は残る。」
「医療記録もある。」
「けれど。」
「その後だけが、意図的に霧の中へ隠されている。」
数秒沈黙が続いた。
ジョージは分かっていた。
エドワードは今、事件ではなく
”別のこと”を考えている。
そして。
予想どおり、返ってきた第一声は。
『……タクミは。』
ジョージは苦笑した。
「ほら来た。」
『今、どこにいる。』
「世田谷署。」
『現地へ向かう可能性は。』
「十分ある。」
「まだ警察は本人確認の段階だけど。」
「タクミだからね。」
「何か危険を感じれば、止まらない。」
電話の向こうで椅子が引かれる音がした。
エドワードが立ち上がった。
ジョージは、その音だけで表情を引き締める。
長い付き合いだ。
この音がした時のエドワードはもう当主ではない。
親友を守るためだけに動く、”エドワード・ハミルトン”になっている。
【ロンドン・ハミルトンホール】
~ 魔王の命令~
「何か危険を感じれば、止まらない。」
ジョージの言葉が途切く。
電話の向こうで、小さく椅子の軋む音がした。
ジョージは目を閉じ、小さく息を吐く。
(ああ。)
(その音だ。)
学生時代から何度聞いただろう。
普段のエドワードは滅多に感情を表へ出さない。
どれだけ巨大な契約でも。
どれだけ市場が荒れても。
どれだけ新聞の一面を飾っても。
紅茶を飲みながら一言、
「そうか。」
で終わる男だった。
だが。
拓海のことだけは違う。
椅子が鳴る。
それは、
伯爵が立った音ではない。
親友が動き出した音だった。
『ジョージ。』
「うん。」
『ハミルトン情報部を起動しろ。』
ジョージは少しだけ笑った。
「理由は聞かないのかい?」
『必要ない。』
「事件の内容も?」
『あとで聞く。』
「相手が誰かも分からない。」
『それもあとだ。』
ジョージは肩を竦める。
やはり
この男は変わらない。
事件でも。
犯人でもない。
最優先順位は最初から一つだけ。
『タクミが近付こうとしている。』
『なら、その周囲を先に調べる。』
それだけだった。
「了解。」
ジョージは受話器を肩で挟みながら、もう一台の端末を起動する。
黒い画面。
社員用ネットワークではない。
世界中のハミルトングループを結ぶ内部回線。
画面へ認証が表示される。
【Hamilton Intelligence Network】
認証完了。
画面が切り替わった。
ロンドン。
ニューヨーク。
ベルリン。
ドバイ。
シンガポール。
東京。
世界中の支社が一斉にオンラインになる。
ジョージは淡々と入力を始めた。
【優先度:S】
対象:十七歳女性
出生地──
偽名使用履歴──
支援団体──
医療記録──
最終確認地点──
送信。
数秒後
世界中の画面へ同じ命令が流れる。
『君は?』
エドワードが尋ねる。
「僕は東京でタクミを追う。」
ジョージは答えた。
「もし現地へ飛ぶなら止める。」
『止まらんぞ。』
「知ってる。」
『説得も無駄だ。』
「もちろん。」
二人とも笑う。
だからこそ。
止めるのではない、
守るのだ。
「現地確認は?」
『欧州支社へ回せ。』
「了解。」
『警察より先に接触するな。』
ジョージは少し意外そうな顔をした。
「保護しない?」
『状況が分からん。』
エドワードの声は冷静だった。
『少女が被害者とはまだ断定できない。』
『保護団体の管理下かもしれない。』
『本人の意思で生活している可能性もある。』
『我々が勝手に介入すれば、タクミの捜査を壊す。』
ジョージは思わず笑う。
「相変わらず。」
「タクミの仕事だけは邪魔しないんだね。」
少しだけ間が空いた。
『あいつは。』
『刑事だからな。』
その一言だけで十分だった。
【ハミルトン情報部】
世界各地で静かに歯車が回り始める。
欧州支社。
現地法人。
提携病院。
物流会社。
保険会社。
送金履歴。
土地登記。
公開されている情報。
公開されていない情報。
国家では届かない場所へ。
企業だから届く場所へ。
蜘蛛の巣のような情報網が広がっていく。
その速度は
行政とは比べものにならなかった。
十五分後。
最初の返信が届く。
該当支援団体。
実体確認できず。
三十分後。
医療施設。
三年前に閉鎖。
さらに十分後。
送金元。
ペーパーカンパニー。
ジョージの眉が動く。
「……やっぱり。」
点が。
少しずつ繋がっていく。
普通ではない。
誰かが。
意図して痕跡を薄くしている。
一時間後。
欧州支社から緊急通信。
ジョージは即座に開く。
『現地到着。』
短い文章。
その続きを読む。
『住宅確認。』
『外部侵入の形跡なし。』
『生活用品あり。』
『衣類あり。』
『食器あり。』
『薬品あり。』
ジョージは息を止める。
最後の一文だけ
読む速度が遅くなった。
”人だけが、いません”
部屋は整っている。
逃げた形跡もない。
争った跡もない。
ただ人だけが。
綺麗に消えていた。
ジョージは静かに呟く。
「……遅かった。」
電話の向こう。
エドワードも黙っていた。
「近隣への聞き込みは?」
『現在実施中。』
「監視カメラ。」
『一部欠落。』
「通信履歴。」
『削除。』
「車両。」
『数時間前に一台。』
「追える?」
『困難。』
ジョージは目を閉じた。
完璧すぎる。
偶然ではない。
これは逃げたのではない。
”移した”
誰かが、
警察より早く。
その時だった。
現地担当から追加資料が送られてくる。
机の引き出し。
破棄し忘れた書類。
配送伝票。
誰かのメモ。
その端に
ボールペンで殴り書きされた一語。
【VICTOR】
ジョージは画面を見つめた。
「……ヴィクター。」
人名か
組織名か
コードネームか
分からない。
だが初めて
敵に名前が付いた。
電話の向こうで、エドワードが静かに尋ねる。
『読めるか。』
「ああ。」
ジョージはゆっくり頷いた。
「まだ何者かは分からない。」
「でも。」
「タクミが追いかけようとしている影に、ようやく名前が付いた。」
再び沈黙。
その静寂を破ったのは
エドワードの低い声だった。
『ジョージ。』
「うん。」
『そのヴィクターが誰であれ。』
『タクミより先に見つけろ。』
ジョージは小さく笑った。
「了解。」
「警察は事件を追う。」
「僕たちは。」
「タクミが事件へ近付きすぎないよう、その外側を全部剝がしていく。」
通信が切れる。
ジョージは再び端末へ向き直った。
世界地図には、次々と新しい調査点が灯っていく。
一方その頃。
世田谷では
龍平と拓海がようやく一つの希望を見つけ、現地からの返答を待っていた。
まだ誰も知らない。
その希望が
ほんの数時間前までしか存在しなかったものだということを。
そして。
「ヴィクター」という名前が、これからの戦いの始まりになることを。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




