第五百五十話 「移送(シーケンス)とは、標的を拉致する行為ではなく、日本側が“存在”を確認した瞬間、管理者が現在地ごと別の檻へ上書きする、捕食者だけが支配する時間軸のことである」という話
何時もの長さの4倍くらいあるのはご愛敬ということで・・・
夜明け前の合同捜査本部は、ひどく静かだった。
人がいないわけではない。
仮眠室へ向かった者もいれば、机に突っ伏したまま短い眠りを拾っている者もいる。
廊下の向こうからは、時折、紙コップの落ちる乾いた音や、コピー機が低く唸る音が聞こえてきた。
だが、部屋の中央に並んだ机の一角だけは、夜が始まった時から何も変わっていなかった。
松本龍平は、モニターの前に座り続けていた。
画面を埋め尽くすのは、海外の古い行政記録、閉鎖された医療施設の一覧、人道支援団体の報告書。
一見すれば、何の繋がりもない情報ばかりだった。
龍平はそれらを、一つずつ開いては閉じていた。
出生。
婚姻。
転居。
死亡。
支援。
保護。
名前の綴りが変わっているもの。
生年月日が数日ずれているもの。
意図的に国籍欄が空白にされているもの。
僅かな違和感を拾い、別の記録と照合し、可能性の低いものを消していく。
キーボードを叩く音だけが、一定の間隔で続いていた。
机の端には、冷え切った缶コーヒーが三本。
どれも半分ほど残っている。
飲むために買ったはずなのに、口をつけたこと自体を忘れているらしい。
龍平は一度も手を伸ばさなかった。
数時間前、母親の死を知った。
十年以上前の海外
自分の知らない場所で……
もう会うことはできない。
声を聞くことも、
何故いなくなったのか、本人の口から聞くことも。
写真の中に残った若い母親へ、今更問いかけることしかできない。
そこで終わるはずだった。
いや
終わったと思った。
調べるべきものは調べた。
母は見つかった。
既に亡くなっていた。
残された事実は、”それだけ”だった。
なのに……
『子どもはいないのか?』
佐伯拓海が、何の気なしに投げた一言。
龍平の中にはなかった疑問。
母親を探すことばかり考えていた。
その後、誰と暮らしていたのか
どんな人生を送ったのか
自分以外に家族がいたのか
”一度も考えなかった”
母親が再婚していた可能性までは調べた。
だが、その先を追わなかった。
婚姻関係があったのなら
子どもがいた可能性もある。
弟か
妹か
そもそも、本当にいたのか。
何も分からない。
分からないからこそ、
龍平は画面から目を離せなくなっていた。
「まだやってんのか。」
背後から声がした。
龍平は振り返らない。
足音だけで誰か分かっていた。
拓海が、コンビニの袋をぶら下げて戻ってくる。
袋の中には、缶コーヒーと菓子パンが何個か入っていた。
拓海は龍平の隣の椅子を引き、乱暴に腰を下ろした。
「お前、さっきから何も食ってねえだろ。」
返事はない。
拓海は気にせず袋を漁り、マヨネーズの入ったパンを取り出した。
袋を開ける音が、静かな室内にやけに大きく響く。
「これうまいぞ。」
「いりません。」
「食ってねえのに即答すんな。」
「いりません。」
「じゃあ俺が食う。」
「どうぞ。」
拓海はパンを一口齧った。
咀嚼しながら画面を見る。
当然、何が表示されているのかほとんど理解していない。
英語。
見慣れない国名。
細かい数字。
略称。
拓海は数秒眺めた後、あっさり諦めた。
「分かんねえ。」
「でしょうね。」
「でも、お前は分かってんだろ。」
龍平の指が一瞬止まった。
「まだです。」
「何が。」
「何も分かっていません。」
「母が再婚していた可能性がある。」
「その後、子どもを産んだ可能性もある。」
「しかし、記録が繋がらない。」
「氏名も違う。」
「国籍も不明。」
「それどころか、同一人物かどうかさえ断定できない資料ばかりです。」
拓海はパンを齧りながら聞いていた。
「でも、可能性はあるんだろ。」
「可能性だけなら。」
「なら、調べりゃいい。」
簡単に言う。
龍平は眉を寄せた。
「調べています。」
「うん。」
「簡単ではありません。」
「見りゃ分かる。」
「なら黙っていてください。」
「俺、結構静かだぞ。」
「食べる音がうるさいです。」
拓海は口を閉じた。
だが、三秒後には再びパンを齧った。
龍平は小さく息を吐き、画面へ戻る。
拓海はそれ以上話しかけなかった。
隣に座ったまま、菓子パンを食べている。
時折、缶コーヒーを開ける。
眠そうに欠伸をする。
何の役にも立っていない。
ただ、そこにいた。
龍平は、再び一つの記録を開いた。
古い医療支援報告。
紛争地域から周辺国へ移送された女性の一覧。
氏名は伏せられている。
年齢。
出身国。
搬送時期。
妊娠週数。
龍平の目が、ある一行で止まった。
日本国籍。
推定二十代後半から三十代。
搬送時、妊娠後期。
記録の日付は、母親が日本から姿を消してから数年後。
龍平は別の資料を開く。
同じ時期。
同じ地域。
外国人女性を受け入れた小規模な診療所。
既に閉鎖されている。
残っていた診療記録は、ごく一部。
龍平は画面を拡大した。
何度も読み返す。
患者名は本名ではない。
だが。
生年月日。
血液型。
過去の手術歴。
複数の条件が、母親の記録と一致していた。
呼吸が浅くなる。
龍平は、別のデータベースを開いた。
診療所から自治体へ提出された出生届の控え。
表示されるまで数秒。
その数秒が、異様に長かった。
画面が切り替わる。
龍平の指が止まった。
拓海はすぐに気づいた。
「松本?」
返事がない。
龍平は画面を見つめていた。
瞬きすら忘れたように。
拓海は食べかけのパンを机へ置いた。
「どうした。」
龍平の唇が、僅かに動いた。
だが、声にならない。
画面に表示されている文字を、一つずつ確認する。
出産日。
母親の年齢。
出産場所。
新生児の性別。
”女児”
その二文字。
龍平は椅子に座ったまま、動けなくなった。
「……いました。」
掠れた声だった。
拓海が画面を覗き込む。
「いた?」
龍平は頷いた。
「母は。」
一度、言葉を切る。
「母は、子どもを産んでいます。」
拓海の表情から、眠気が消えた。
「間違いないのか。」
「血液型。」
「母体の既往歴。」
「年齢。」
「移送時期。」
「一致する項目が多すぎます。」
「同一人物と考えて間違いありません。」
「子どもは。」
龍平は画面を見る。
「女児。」
「十七年前に生まれています。」
拓海は黙った。
龍平も黙った。
モニターの白い光だけが、二人の顔を照らしていた。
遠くで電話が鳴った。
誰かが受話器を取る。
小さな話し声。
すぐにまた、静けさが戻る。
拓海は画面の文字を読めないまま見つめていた。
やがて、ゆっくり息を吐く。
「……いたな。」
龍平は返事をしなかった。
喉が詰まっていた。
数秒遅れて…
「……はい。」
ようやく、それだけ答えた。
【妹】
その言葉が、頭に浮かぶ。
だが、口にはできなかった。
顔も知らない。
名前も知らない。
自分の存在を知っているかも分からない。
同じ母親から生まれたという”記録”があるだけ。
それでもこの世界のどこかに
母親のその後を知るかもしれない人間がいる。
自分と同じ血を引く人間が生きている。
「ほら見ろ。」
拓海が言った。
龍平が顔を上げる。
拓海は少しだけ笑っていた。
「だから言ったべ。」
「何がですか。」
「子どもいねえのかって。」
「ただの思いつきでしょう。」
「思いつきでも当たりは当たりだ。」
「偶然です。」
「刑事の勘と言え。」
「嫌です。」
「そこは言えよ。」
龍平は画面へ戻った。
だが、先ほどまでより指が僅かに震えている。
拓海はそれを見ても、何も言わなかった。
代わりに、机の上の冷えたコーヒーを取り上げる。
「これ、いつのだ。」
「知りません。」
「三本あるぞ。」
「知りません。」
「全部開いてる。」
「知りません。」
「飲まねえなら捨てるぞ。」
「勝手にしてください。」
「新しいの買ってきたから飲め。」
拓海は温かい缶コーヒーを龍平の手元へ置いた。
龍平は一瞬それを見た後、無言で受け取った。
缶の温度が、冷えた指に染みる。
「名前は。」
拓海が尋ねる。
龍平は首を振った。
「登録されていません。」
「出生届は。」
「子どもの欄だけが欠落しています。」
「欠落?」
「恐らく意図的です。」
「出生そのものは記録されている。」
「しかし、氏名も国籍も、その後の転居先も残されていない。」
「そんなことできんのか。」
「正規の手続きなら不自然です。」
「ですが、当時の地域情勢を考えれば、記録管理は杜撰です。」
「単なる紛失の可能性もある。」
「誰かが消した可能性も。」
「今は断定できません。」
拓海は腕を組んだ。
「生きてんのか。」
龍平はすぐに答えなかった。
出生記録がある。
それだけでは、現在の生存を証明できない。
龍平は再びキーボードへ手を置いた。
「追います。」
「どこまで。」
「現在まで。」
画面上に新しい検索窓が開かれる。
龍平は出生地を起点に、医療記録、教育支援、予防接種、入国記録を洗い始めた。
本名がない。
ならば、年齢と性別。
居住地域。
母親と関係のあった支援団体。
一つずつ条件を重ねる。
候補は最初、数百件あった。
別人を消す。
死亡者を消す。
年齢の合わない者を消す。
国外へ正式に移住した者を消す。
一時間。
二時間。
窓の外が少しずつ白み始める。
本部に人が戻り始めた。
交代要員が入り、夜勤組が報告を始める。
机の上には、新しい資料が積み上がっていく。
それでも龍平は画面を見続けていた。
拓海は途中で一度席を外し、上司へ状況を説明した。
戻ってくると、龍平の画面には十数人の候補が並んでいた。
「減ったな。」
「話しかけないでください。」
「はいはい。」
龍平は、一人の少女の医療費支援記録を開いた。
氏名は現地名。
生年月日は出生記録と二日ずれている。
血液型は一致。
幼少期から、複数の非営利団体による医療支援を受けていた。
支援団体は数年ごとに変わっている。
居住地も頻繁に移動していた。
だが、不自然なことに、
どの記録にも保護者名がない。
龍平は別の候補を開く。
同じように、偽名。
同じように、保護者欄が空白。
だが年齢が一年違う。
予防接種歴も一致しない。
削除。
次。
教育支援を受けた少女。
年齢は一致。
だが血液型が違う。
削除。
次。
三年前まで地方の医療施設で治療を受けていた少女。
生年月日。
血液型。
出生地域。
一致。
龍平の目が細くなる。
「佐伯さん。」
拓海がすぐに椅子を寄せる。
「出たか。」
「可能性の高い記録です。」
「三年前まで、この診療所で定期的な治療を受けています。」
「何の病気だ。」
「持病ではありません。」
「栄養状態の経過観察と、軽度の貧血。」
「保護者は。」
「記載なし。」
「支払いは。」
「海外の支援団体。」
龍平は送金元を開く。
同じ団体名が、複数の国で使われていた。
だが登記住所には実体がない。
連絡先も既に無効。
「怪しいな。」
拓海が呟く。
「怪しいだけです。」
龍平は即座に返した。
「違法行為の証拠にはなりません。」
「保護者情報を伏せる事情があった可能性もある。」
「紛争や家庭内暴力からの避難。」
「人身取引被害者の保護。」
「証人保護。」
「本人を守るため、身元を秘匿している可能性はいくらでもあります。」
「じゃあ、今すぐ踏み込むわけにはいかねえか。」
「当然です。」
「本人が安全に暮らしているなら、警察が不用意に接触する方が危険です。」
拓海は頷いた。
「まず確認。」
「はい。」
龍平はさらに記録を追う。
診療所の閉鎖後、
少女は別の地域へ移っていた。
学校の在籍記録。
偽名。
その後、退学。
さらに別の支援団体。
転居。
また別の名。
まるで、一定期間ごとに生活そのものを切り替えている。
「名前を変えすぎじゃねえか。」
「不自然です。」
「でも、危険だとは言い切れねえ。」
「はい。」
「本人の意思で移動している可能性もあります。」
「保護団体が安全確保のために移している可能性も。」
「現地で確認するまで分かりません。」
龍平は画面上の情報を地図へ落とし込んだ。
点がいくつも並ぶ。
出生地。
幼少期を過ごした地域。
医療施設。
学校。
支援団体。
移動の線を繋いでいく。
最後に残った点は、極東の小さな地方都市だった。
龍平の手が止まる。
「ここです。」
拓海が身を乗り出す。
「現在地か。」
「候補です。」
「断定はできません。」
「半年前、同じ年齢の少女がこの地域の診療所を受診しています。」
「使われた名前は過去のものと違います。」
「ですが、血液型と既往歴が一致。」
「支払い元も同じ系列です。」
画面に表示されたのは、郊外の一軒家だった。
施設名はない。
法人登記もない。
周辺に監視設備があるわけでもない。
写真を見る限り、どこにでもある住宅に見える。
庭。
白い壁。
古い車。
洗濯物。
生活の痕跡。
拓海は画面を見つめた。
「普通の家だな。」
「そう見えます。」
「協力者宅か。」
「里親家庭かもしれません。」
「民間の保護施設かもしれない。」
「単なる下宿先の可能性もあります。」
「本人がいるかも、まだ分からねえ。」
「はい。」
龍平は住所と関連記録を保存した。
「現地当局へ照会します。」
「事件性を前提にしない形で。」
「本人の在住確認。」
「安全確認。」
「接触する場合も、まず保護の必要性を判断してもらう。」
「身柄確保ではありません。」
拓海は龍平を見る。
「会いに行かねえのか。」
龍平は一瞬、黙った。
行きたい。
今すぐ。
飛行機に乗って。
その家へ行って。
扉を叩いて。
妹なのかと聞きたい。
母親を知っているのか。
何故名前を変えているのか。
何故ずっと隠されていたのか。
全部聞きたい。
だが、
龍平は刑事だった。
「現時点で、僕に会う権利はありません。」
静かな声だった。
「記録上、血縁の可能性があるだけです。」
「本人は僕の存在を知らないかもしれない。」
「安全に暮らしているなら、突然現れた男が兄だと名乗ること自体、脅威になります。」
拓海は何も言わなかった。
龍平は画面の住所を見る。
「まず、生きているか。」
「安全か。」
「本人が接触を望むか。」
「その確認が先です。」
「そっか。」
拓海は短く答えた。
それから、龍平の肩を軽く叩いた。
「なら、順番通りやろう。」
「はい。」
「ちゃんと確認して。」
「安全なら。」
「その時、会えばいい。」
龍平は、僅かに目を伏せた。
「……そうですね。」
拓海は机の上に残っていたマヨネーズパンを手に取った。
「じゃあまず朝飯食え。」
「いりません。」
「妹見つけた日に倒れたら格好つかねえぞ。」
「まだ妹と確定したわけではありません。」
「ほぼ確定って言っただろ。」
「血縁確認はしていません。」
「細けえな。」
「刑事なので。」
「俺も刑事だ。」
「佐伯さんは大雑把すぎます。」
「褒めんな。」
「褒めていません。」
拓海は笑った。
龍平も、ほんの僅かに口元を緩めた。
だが。
その表情はすぐに消えた。
画面には、名前の違う十七歳の少女の記録。
顔写真はない。
声も知らない。
それでも。
確かに。
”そこにいる”
龍平は新しい缶コーヒーを開けた。
冷める前に、一口飲んだ。
*************
地下へ降りるエレベーターには、階数表示がなかった。
扉が開く。
照明を落とした広い部屋。
壁一面に並ぶ画面。
物流。
送金。
通信。
人員。
複数の国を跨ぐ情報が、途切れることなく更新されていた。
中央の席に、一人の男が座っている。
ヴィクターは、日本から送られてくる監視記録を無言で見ていた。
警察内部の詳細な会話までは把握していない。
だが
どの記録が照会されたか。
どの行政機関へ問い合わせが入ったか。
どの支援団体の過去が掘り返されたか。
それだけで十分だった。
部下が一歩前へ出る。
「日本側が出生記録に到達しました。」
ヴィクターは何も答えない。
画面には、十七年前の診療所。
その後に続く偽名の一覧。
さらに、
現在の滞在先周辺に関する照会記録。
「現時点では。」
部下が続ける。
「対象の存在を確認しただけです。」
「警察は事件性を認定していません。」
「現地当局への照会も、安全確認を目的としたものです。」
ヴィクターは、画面から目を離さなかった。
「そうか。」
「移送準備を。」
部下が一瞬、沈黙した。
「移送を開始するのですか。」
「そう言った。」
「しかし、日本側はまだ保護の必要性すら判断していません。」
「強制捜査の動きもありません。」
「現在地も、候補の一つとして照会しているだけです。」
ヴィクターはゆっくりと顔を上げた。
感情のない灰色の目が、部下を見る。
「それがどうした。」
「……失礼しました。」
「日本の警察が何を判断するかは問題ではない。」
ヴィクターは再び画面へ視線を戻す。
「対象の位置が検索された。」
「照会が発生した。」
「関連記録が接続された。」
「ならば、その場所は既に安全ではない。」
部下は黙って聞いていた。
「彼らが犯罪だと判断してから動く必要はない。」
「彼らが保護を決定するまで待つ必要もない。」
「見つけた。」
ヴィクターは短く言った。
「その時点で、そこへ置いておく理由は消えた。」
「ですが、今移動させれば。」
「日本側に不審を抱かせる可能性があります。」
「既に照会された場所に残す方が、損失の可能性は高い。」
迷いはなかった。
ヴィクターにとって、人間が抱く希望も、疑念も、焦りも。
全ては数値でしかない。
発覚率。
追跡率。
回収率。
損失率。
感情は計算に含まれない。
「人間は。」
ヴィクターが静かに言った。
「何かを見つけると、安心する。」
「正解へ到達したと思い込む。」
「それがただの入口に過ぎなくても。」
画面には、日本側の照会履歴が並んでいる。
「彼らは今、対象がそこにいる可能性を掴んだ。」
「次に行うのは、確認だ。」
「確認には手続きが必要になる。」
「上申し、共有し、現地当局へ依頼し、返答を待つ。」
「人間の組織は、正しく動こうとするほど遅くなる。」
ヴィクターの指が、机上の端末に触れた。
「我々は違う。」
表示されたのは、一件の管理記録。
氏名。
空欄。年齢。
十七。
性別。
女。
現在地。
日本側が特定した住所と同じ場所。
その横に、小さく表示された文字。
”ASSET”(資産)
ヴィクターは一切の躊躇なく、命令欄を開く。
「輸送経路は。」
「陸路で国境を越え、その後、民間機を使用します。」
「現在の保護担当には。」
「身元確認手続きに問題が発生したと伝えます。」
「対象本人には。」
「安全上の理由による一時的な転居と。」
「抵抗した場合は。」
「鎮静処置を。」
部下の返答にも、感情はなかった。
ヴィクターは画面を見つめる。
そこに映る十七歳の少女を、人間として見てはいない。
娘でも。
妹でも。
母親の残した子でもない。
必要な場所へ動かす資産。
それだけだった。
「開始しろ。」
部下が端末を操作する。
「了解。」
数秒後。
画面の表示が切り替わった。
”CURRENT LOCATION”(現在地)
文字が消える。
代わりに。
”TRANSFER IN PROGRESS”(転送中)
赤い表示が点滅する。
「対象。」
部下が淡々と報告した。
「移送を開始しました。」
ヴィクターは頷いた。
それ以上、何も言わない。
画面には。
”名前のない十七歳の女”
その一行だけが残されていた。
*************
合同捜査本部。
龍平の端末から、現地当局への照会依頼が送信された。
送信完了。
その表示を確認し、龍平はようやく背もたれへ身体を預ける。
拓海が隣で立ち上がった。
「返事来るまで少しかかるな。」
「ええ。」
「仮眠するか。」
「しません。」
「しろ。」
「佐伯さんこそ。」
「俺は元気。」
「さっきから欠伸ばかりしています。」
「生理現象だ。」
拓海は大きく伸びをした。
窓の外には、薄い朝日が差し始めている。
長い夜が終わろうとしていた。
龍平は、画面に残った住所を見る。
そこにいるかもしれない。
生きているかもしれない。
会えるかもしれない。
まだ
何一つ確定していない。
それでも
母親の死によって完全に閉じたと思っていた道の先に、初めて続きが現れた。
龍平は、小さく息を吐く。
「……佐伯さん。」
「ん?」
「ありがとうございます。」
拓海はきょとんとした。
「何が。」
「……いえ。」
龍平は画面へ向き直る。
「何でもありません。」
「気になるだろ。」
「何でもありません。」
「言えよ。」
「嫌です。」
「なんだよ。」
拓海が不満そうに呟く。
龍平は答えなかった。
その時
世界のどこかで。
少女を乗せるための車が、静かに動き始めていた。
日本側がようやく掴んだ、存在という名の細い糸。
それを切るためではない。
別の場所へ繋ぎ替えるために。
龍平たちはまだ知らない。
自分たちが見つけたのは、現在地ではない。
既に消され始めた、過去の居場所なのだということを。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
いいねや感想など、いつも励みになっています。
この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




