第五百四十二話 「解析(デバッグ)とは、相棒だけが持つ違和感(ノイズ)が、完成した数式を書き換える現象のことである」という話
ラブコメ描きたい
【合同捜査本部・早朝】
~完成した数式~
朝六時、合同捜査本部。
まだ誰も出勤していない静かな部屋で、松本龍平は一人、机いっぱいに資料を広げていた。
二十年前の失踪届。
横浜港の資料。
銀行口座。
出入国記録。
勤務先。
そして、一枚の古びた写真。
若い母、松本薫。
隣には見知らぬ外国人の男。
背景は横浜港。
「……。」
昨夜から、一睡もしていない。
写真は鑑識に回した。
紙質。
インク。
現像液。
年代。
撮影場所。
すべて本物。
改ざんはない。
ここまでは証明できた。
そこから先も洗った。
銀行口座。
送金履歴。
勤務先。
当時の住所。
周辺人物。
調べられるものは、すべて調べた。
それでも、何も出ない。
「……おかしい。」
龍平は写真を見つめる。
写真は本物。
証拠も本物。
数式は完成している。
なのに昨夜から一つだけ。
頭の中で消えない言葉があった。
『そんな顔しねぇ。』
「……。」
あの男は。
写真を見ていなかった。
自分を見ていた。
「おはよう。」
静かな部屋へ声が響く。
拓海だった。
缶コーヒーを片手に欠伸をしながら席へ座る。
龍平を見る。
机を見る。
山積みの資料を見る。
「……また寝てねぇな。」
「ええ。」
「徹夜か。」
「ええ。」
拓海は写真を手に取る。
何も言わない。
数秒、
静かな時間だけが流れた。
「……。」
「やっぱり。」
「嫌な匂いするな。」
龍平は苦笑した。
「昨日もそう言いましたね。」
「おう。」
「ですが。」
「私は全部調べました。」
机の上へ資料を並べる。
「写真は本物。」
「年代も一致。」
「背景も一致。」
「移動履歴にも矛盾はありません。」
「証拠としては完成しています。」
拓海は報告書を一枚ずつ眺める。
「すげぇな。」
「これ全部一人でやったのか。」
「ええ。」
「でも。」
拓海は写真を机へ戻した。
「まだ変だ。」
龍平は静かに眼鏡を押し上げた。
「どこがです。」
「分かりません。」
「証拠もありません。」
「それでも変だと言うんですか。」
拓海は腕を組んだ。
しばらく黙る。
そして。
「松本。」
「はい。」
「お前さ。」
「写真ばっか見てる。」
「……。」
「母ちゃん見てねぇ。」
龍平は小さく息を吐いた。
「昨日も同じことを言いました。」
「ええ。」
「意味が分かりません。」
拓海は少し困ったように笑う。
「俺も説明できねぇ。」
「でも。」
「俺。」
「刑事になってからずっと。」
「人の顔見てきた。」
「泣く顔も。」
「怒る顔も。」
「嘘つく顔も。」
「だから。」
「この人。」
「笑ってるけど。」
「笑ってねぇ。」
龍平は何も返せない。
机の上には完璧な証拠が並んでいる。
だがそのどれにも。
"笑っていない"
という項目は存在しなかった。
長い沈黙。
やがて龍平は静かに写真を手に取る。
「……佐伯さん。」
「はい。」
「お願いがあります。」
拓海が顔を上げる。
龍平は写真を差し出した。
「この写真ではありません。」
「この人を。」
「あなたの目で、もう一度見てください。」
「そして。」
「もし何か感じたなら。」
「今度は、それを起点に私が調べます。」
「証拠は。」
「私が必ず見つけます。」
【合同捜査本部・資料室】
~ 解析対象の変更~
昼前
合同捜査本部資料室。
壁一面に並ぶ古い事件ファイル。
龍平は、写真を一番上へ置いた。
その周囲へ、
港。
勤務先。
銀行。
住民票。
出入国記録。
二十年前の資料を円を描くように並べていく。
「……。」
昨日までと違う。
昨日までは、
写真が証拠だった。
今日は違う。
写真の中の人間が証拠だった。
龍平は静かにメモを書き換える。
写真を解析する。
その一文へ一本線を引いた。
代わりに書く。
松本薫を解析する。
「……。」
小さく息を吐く。
証拠は嘘をつかない。
だが
証拠だけが真実ではない。
それを
あの大型犬は、二年間ずっと自分の横でやっていた。
「佐伯さん。」
「ん?」
「少し付き合ってください。」
拓海は缶コーヒーを飲みながら立ち上がる。
「いいぞ。」
「どこ行く。」
「まず。」
「勤務先です。」
【港湾会社】── 人を追う
午後。
横浜。
古い港湾会社。
応接室へ通された二人の前へ、白髪の女性がゆっくり座った。
龍平は写真を差し出す。
「この女性をご存じありませんか。」
女性は眼鏡を掛け直す。
「ああ……。」
「薫さん。」
「懐かしいねぇ。」
龍平は身を乗り出した。
「どんな人でしたか。」
女性は少し考えた。
「優しい人だったよ。」
「真面目で。」
「よく働いて。」
「誰にでも頭を下げる人だった。」
龍平はメモを書く。
その横で。
拓海は一言も喋らない。
ただ。
女性だけを見ていた。
「でもね。」
女性が少しだけ笑った。
「一回も。」
「笑ったことなかった。」
龍平の手が止まる。
「……え?」
「写真では。」
「笑っています。」
女性は首を横へ振った。
「いや。」
「あんな顔。」
「見たことない。」
「仕事終わっても。」
「飲み会でも。」
「忘年会でも。」
「一回も。」
「だから。」
「最初見た時。」
「別人かと思ったよ。」
静かに応接室へ沈黙が落ちる。
拓海は写真を見る。
女性を見る。
そして
小さく頷いた。
「……。」
「やっぱり。」
【帰り道】
~刑事の違い~
夕方、
横浜港沿い。
海風が吹く。
龍平は歩きながら口を開いた。
「佐伯さん。」
「ん?」
「あなたは。」
「証拠より。」
「先に人を見る。」
「ええ。」
「何故です。」
拓海は少し笑う。
「だってさ。」
「証拠って。」
「人が作るじゃん。」
龍平は黙る。
「だから。」
「証拠がおかしかったら。」
「人を見る。」
「人がおかしかったら。」
「証拠見る。」
「どっちでもいい。」
「最後に。」
「噓ついてる方が負け。」
龍平は少しだけ笑った。
「……。」
「だから。」
「二年間。」
「外さなかったんですね。」
拓海は照れくさそうに頭を掻く。
「知らん。」
「たまたまだ。」
【General Logistics・地下】
巨大モニター。
部下が報告する。
「管理者。」
「松本龍平。」
「解析対象を変更。」
ヴィクターは画面を見る。
「変更?」
「はい。」
「港。」
「写真。」
「証拠。」
「ではなく。」
「被写体。」
「松本薫。」
「その人物そのものの解析へ移行しています。」
ヴィクターは静かに立ち上がる。
「……。」
「誰が。」
「教えた。」
部下は即答した。
「世田谷署。」
「佐伯拓海です。」
長い沈黙。
ヴィクターはモニターに映る二人を見つめた。
「秀才は。」
「証拠を追う。」
「だから。」
「私は証拠を与えた。」
「警察は。」
「証拠を見つければ満足する。」
「それで。」
「世界中の枝を切り落とし。」
「幹だけを残す。」
そこまで言って。
ヴィクターは初めて小さく眉を動かした。
「だが。」
「あの猟犬は。」
「証拠ではなく。」
「人間を嗅ぎ始めた。」
「……。」
「予定を修正する。」
モニターには、
港を歩く二人の刑事。
一人は証拠を追い。
一人は人を見る。
その歩幅がぴたりと揃った瞬間だった。
【General Logistics・地下機密セクタ】
~ 管理者の修正~
暗転した地下オフィス。
巨大なモニターには、横浜港を歩く二人の刑事が映し出されていた。
松本龍平。
佐伯拓海。
部下が静かに報告する。
「管理者。」
「松本龍平。」
「解析対象を変更しました。」
ヴィクターは画面から目を離さない。
「変更?」
「はい。」
「写真。」
「港。」
「証拠。」
「それらではなく。」
「松本薫、その人物そのものの解析へ移行しています。」
静かな沈黙。
ヴィクターはゆっくりと椅子へ腰掛け直した。
「……。」
「誰だ。」
「変更させたのは。」
部下は即答する。
「世田谷署。」
「佐伯拓海です。」
ヴィクターは小さく目を閉じた。
「そうか。」
「やはり。」
「佐伯拓海。」
部下は続ける。
「港のルートは予定通りです。」
「警察は横浜港を起点に捜査を進めています。」
「このままなら切り捨て予定のラインで収束します。」
ヴィクターは静かに首を横へ振った。
「違う。」
「もう。」
「予定通りではない。」
部下が顔を上げる。
ヴィクターは画面を見つめたまま話す。
「松本龍平は。」
「優秀な刑事だ。」
「だから私は。」
「本物の証拠を与えた。」
「本物だから疑わない。」
「本物だから必ず辿り着く。」
「そして。」
「警察はそこで満足する。」
部下は頷く。
「切り捨てる支部ですね。」
「そうだ。」
「一本の枝を差し出せば。」
「幹は守られる。」
ヴィクターは淡々と続けた。
「警察は成果を得る。」
「世間は事件解決と報じる。」
「組織は痛手を負う。」
「だが。」
「本体は生きる。」
「それで良かった。」
再び沈黙。
ヴィクターは画面を拡大した。
そこには写真ではなく
当時の勤務先を歩き回る龍平。
その少し後ろで、周囲の人間を眺め続ける拓海。
「だが。」
「猟犬は違った。」
「証拠を嗅いでいない。」
「人間を嗅いでいる。」
部下が静かに尋ねる。
「管理者。」
「排除しますか。」
ヴィクターは首を横へ振る。
「いや。」
「まだだ。」
「まだ。」
「幹には届かない。」
「だが。」
「予定は修正する。」
部下が一礼する。
「承知しました。」
ヴィクターは最後に、小さく呟いた。
「松本龍平。」
「お前は。」
「私の用意した答えへ辿り着く。」
「だが。」
「佐伯拓海。」
「お前だけは。」
「どこまで嗅ぎつく。」
モニターには、並んで歩く二人の刑事。
秀才と猟犬。
異なる入口から同じ真実へ向かう二つの背中を映したまま、地下オフィスは再び静寂に包まれた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




