第五百三十二話 「真実(パケット)とは、過去に封じられた記録のことではなく、秀才の網膜へ侵入した瞬間、日常という名の完璧なシステムが静かに崩れ始める現象のことである」という話
苦手なこの手の話をどう最後につなげるか。
雪森は頭を抱えていた_| ̄|○
偽造旅券組織の摘発から、数日が経った。
警視庁合同捜査本部は、まだ完全には解散していない。
だが、空気だけはもう終わっていた。
壁一面に貼られていた写真は少しずつ剥がされ、赤い糸で結ばれていた関係図も、
端から順に外されていく。
運び屋。
偽造工房。
ブローカー。
幹部。
二年かけて追い続けた線は、ようやく一つの形になった。
新聞は大きく報じた。
国際偽造旅券組織、警視庁が摘発。
合同捜査本部、二年越しの成果。
署内では、誰もが少しだけ肩の力を抜いていた。
「佐伯、よくやったな」
「松本もだ」
「若いのに大したもんだ」
そう言われるたび、拓海はいつものように笑った。
「いやー、松本が細かいとこ見てくれたんで!」
「佐伯さんが余計なところへ突っ込んだせいで、確認箇所が増えただけです」
「褒めてる?」
「褒めていません」
周囲が笑う。
いつもの光景だった。
二年。
長かった。
走って、空振りして、また走って。
張り込んで、待って、逃げられて。
やっと掴んで、また別の端へ飛ばされて。
その繰り返しの果てに、ようやくここまで来た。
だから誰もが思っていた。
”終わったのだ”、と。
少なくとも、一区切りはついたのだ、と。
だが。
拓海だけは、押収された偽造旅券の一冊を眺めたまま、どこか納得していない顔をしていた。
「佐伯さん」
龍平が声を掛ける。
「何ですか、その顔は」
「んー」
拓海は旅券を指先で弾いた。
「終わった感じしねぇ」
「証拠は」
「ない」
「では黙ってください」
「冷てぇな」
「事実です」
「でもさ」
拓海は旅券を机へ置いた。
「こいつら、作ってたんだよな」
「ええ」
「偽造旅券を」
「そうです」
「じゃあ」
拓海は首を傾げた。
「何のために?」
龍平は答えなかった。
答えられなかったのではない。
その問いは、すでに自分の中にもあった。
作る理由。
運ぶ理由。
使わせる理由。
そこだけが、まだ資料の中で空白になっている。
龍平は静かに眼鏡を押し上げた。
「……現時点では、証拠がありません」
「だよな」
「ただ」
「ん?」
「資金の流れが切れています」
「切れた?」
「消えた、ではありません」
龍平は資料を一枚取り出す。
「途中で意図的に切られています」
拓海は少しだけ笑った。
「トカゲの尻尾か」
「おそらく」
「やっぱ上いるじゃん」
「可能性の話です」
「可能性でも変だ」
「あなたの“変”は、捜査資料には書けません」
「便利だぞ?」
「不便です」
二人は短く言い合い、そして黙った。
もう何度も繰り返したやり取りだった。
違和感を拾う男。
証拠を積む男。
噛み合わないようで、結果だけは噛み合う。
その呼吸が、二年で出来上がっていた。
だが、その日。
龍平は、拓海の違和感にすぐ答えを出せなかった。
”証拠がない”。
それがすべてだった。
「松本」
「はい」
「まだ調べる?」
「当然です」
「だよな」
拓海は笑う。
「じゃ、俺も付き合う」
「結構です」
「なんでだよ」
「あなたがいると資料が増えます」
「俺、役に立つだろ」
「立ちます」
「お」
「その分、余計な仕事も増えます」
「褒めてねぇな」
「はい」
拓海は豪快に笑った。
その笑い声が、静かな合同捜査本部に響く。
数日後には、この部屋も片付くだろう。
壁の写真も、赤い糸も、机の山も。
すべて通常業務へ戻る。
だが龍平は、まだ戻るつもりはなかった。
”終わっていない”。
その感覚だけは、拓海と同じだった。
ただし。
拓海は違和感でそう言っている。
龍平は、証拠が消された跡を見てそう判断している。
そこだけが違った。
夜。
成城署刑事課。
ほとんどの職員が帰った後も、龍平だけはデスクに残っていた。
蛍光灯の明かりが、白く机を照らしている。
コピー機の作動音。
キーボードを叩く音。
遠くの廊下を歩く足音。
それ以外は何もない。
龍平は、合同捜査で押収された資料の一覧をもう一度開いた。
偽造旅券。
番号管理表。
送金記録。
携帯端末。
海外への渡航履歴。
名前のない連絡先。
一つずつ確認していく。
何度見ても、完璧に切られている。
切り離された末端。
消えた上流。
綺麗すぎる断絶。
普通なら、ここまで完璧に痕跡は消せない。
誰かが内部の構造をよく知っている。
あるいは。
最初から、”切り捨てる前提”で動かしていた。
「……気持ちが悪い」
思わず呟いた。
佐伯拓海の言葉が、少し移った気がして嫌になる。
龍平は小さく舌打ちし、別のデータベースを開いた。
未解決失踪者。
不法滞在者。
身元不明遺体。
海外渡航後に足取りが途絶えた者。
偽造旅券に関わる可能性のある古い事件を、年代順に並べ直す。
十年前。
十五年前。
二十年前。
それぞれは別の事件だった。
管轄も違う。
担当も違う。
だが、旅券番号の癖や経由地に、僅かな共通点がある。
偶然にしては多すぎる。
龍平は画面をスクロールする。
そして。
指が止まった。
一行。
ありふれた名前の羅列の中に、その名前はあった。
『松本 薫』
龍平は、何も言わなかった。
ただ、画面を見つめる。
数秒。
呼吸が浅くなる。
もう一度、ゆっくり読み直す。
松本 薫
年齢。
生年月日。
本籍。
失踪届の記録。
そして、ステータス。
”死亡”
龍平は、椅子の背もたれからゆっくり体を起こした。
「……死亡」
低く呟く。
母親だった。
”松本薫”。
龍平にとって、その名前は決して温かいものではない。
父親の暴力。
荒れた部屋。
安い食事。
薄い布団。
子供の自分を置いて消えた女。
男を作って逃げたのだと聞かされてきた。
そういう人間なのだと、ずっと思ってきた。
だから、憎んだ。
憎むことで、何とか立っていた。
それなのに。
死亡。
画面の中の無機質な二文字が、何の感情もなくそこにあった。
「……そうですか」
龍平は小さく吐き捨てる。
「男と逃げた先で、死んだということですか」
そう言えば済むはずだった。
くだらない。
今さらだ。
自分には関係ない。
そう切り捨てれば終わる。
だが。
刑事としての目が、それを許さなかった。
記録が不自然だった。
死亡確認日。
移動履歴。
戸籍の付票。
添付資料。
その中に、本来あるはずのものがない。
”顔写真”。
身元確認に使われたはずの古い写真。
その項目だけが、綺麗に抜けている。
削除ではない。
破損でもない。
最初から、そこだけ存在しなかったように処理されている。
龍平の目が細くなる。
「……何ですか、これは」
さらに詳細ログを開く。
アクセス履歴。
閲覧権限。
更新日。
どれも正規の処理だった。
行政機関の権限。
正しい手順。
正しい記録。
正しい上書き。
だからこそ、おかしい。
完璧すぎる。
人間が偶然残した欠損ではない。
誰かが意図的に、痕跡を残さないよう処理した空白だった。
龍平は画面の前で動かなくなる。
自分の母親の記録。
それが、国際的な偽造旅券事件の関連資料の中に紛れている。
しかも、写真だけが抜かれている。
戸籍の一部が上書きされている。
そして、死亡と記録されている。
「……誰が」
喉の奥から声が漏れた。
「誰が、何のために」
母を探したかったわけではない。
真実を知りたかったわけでもない。
そう思っていた。
ずっと。
だが、目の前の空白は違った。
これは感情の問題ではない。
記録の問題だ。
証拠の問題だ。
刑事として、見過ごせない。
そう自分に言い聞かせる。
言い聞かせなければならないほど、心のどこかが揺れていた。
龍平は深く息を吸い、端末からデータを閉じた。
一度、目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、母の顔ではなかった。
記憶にある母の顔は、もう曖昧だ。
泣いていたのか。
笑っていたのか。
怒っていたのか。
それすらはっきりしない。
ただ。
”自分を置いていった”。
その事実だけが、何度も記憶の中で形を変えずに残っている。
「……今さら」
小さく呟く。
「今さら、何を」
返事はない。
刑事課の蛍光灯だけが、白く机を照らしていた。
その夜、龍平は資料を閉じきれなかった。
何度も同じページを開く。
何度も同じ空白を見る。
写真がない。
記録が上書きされている。
死亡。
松本薫。
その四つが、頭の中で同じ場所を回り続けていた。
終わったはずの事件。
切られたはずの尻尾。
その端から、なぜ母親の名前が出てくるのか。
答えはなかった。
ただ。
何かが始まっている。
その感覚だけが、冷たい水のように背中を伝っていた。
【深夜・成城】── 白い封筒
その日の夜。
成城の住宅街は静かだった。
街灯が一定の間隔でアスファルトを照らし、昼間の喧騒が嘘のように人影はない。
龍平はスーツの上着を肩へ掛けたまま、自宅アパートの階段をゆっくり上がっていた。
今日も帰宅は日付を回っている。
二年間。
この生活にも慣れた。
刑事になれば忙しいことくらい分かっていた。
だが、今日だけは疲労の種類が違った。
身体ではない。
頭だった。
「……松本薫。」
誰もいない階段で、小さく呟く。
母親の名前を口にしたのは何年ぶりだろう。
思い出したくもない。
思い出す必要もない。
そう思って生きてきた。
それなのに。
なぜ今さら。
あの資料の中に。
しかも、あんな形で。
玄関前へ着く。
鍵を差し込む。
カチャリ。
いつも通りの音。
ドアを開ける。
狭いワンルーム。
冷たい空気。
電気も点けないまま一歩踏み出した、その時だった。
視界の端に白いものが映る。
「……?」
床。
玄関の内側。
一通の白い封筒。
龍平は動かなかった。
視線だけを落とす。
封筒は新品だった。
折れも汚れもない。
郵便局の消印もない。
誰かが直接投函した。
それだけはすぐに分かった。
ゆっくりしゃがみ込み、封筒を持ち上げる。
表。
【松本龍平様】
それだけ。
差出人は空白。
裏返す。
封は糊付けされている。
龍平は数秒見つめた。
刑事として考える。
罠か。
脅迫か。
嫌がらせか。
普通なら鑑識へ回す。
だが。
何故か。
開けなければならない。
そんな感覚だけがあった。
小さく息を吐き、封を切る。
中から滑り落ちたのは、一枚の写真だった。
「……。」
古い写真。
少し色褪せている。
若い女性。
二十代前半くらい。
柔らかく笑っている。
その笑顔に見覚えはなかった。
だが。
龍平には分かった。
母だった。
松本薫。
まだ何も知らなかった頃の。
まだ自分が生まれる前なのか、それとも幼い頃なのか。
記憶には存在しない笑顔。
背景には古い石造りの建物が写っている。
日本では見かけない街並み。
旅行写真だろうか。
それとも。
「……。」
龍平は写真を裏返した。
裏には、たった一行。
黒い文字。
『真実を知りたくないか』
部屋が静まり返る。
冷蔵庫のコンプレッサーだけが低く唸っていた。
龍平は写真を見つめる。
もう一度。
裏返す。
表。
裏。
表。
裏。
「……ふざけるな。」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
母親へか。
送り主へか。
それとも。
揺れ始めた自分自身へか。
写真を机へ置く。
スマートフォンを取り出す。
撮影。
指紋。
紙質。
インク。
出来る限り確認する。
何もない。
普通の写真。
普通の封筒。
普通の紙。
なのに。
何一つ普通ではない。
刑事としての勘が告げる。
これは偶然じゃない。
誰かが。
自分へ向けて。
「母親」を選んだ。
「……誰だ。」
返事はない。
静かな部屋。
時計だけが時を刻む。
龍平は椅子へ座り、その写真を見続けていた。
眠気はなかった。
気付けば夜明けが近付いていた。
【どこか】
薄暗い部屋。
並ぶモニター。
無数の映像。
その一つに、龍平の部屋が映っていた。
男は無言で画面を眺めている。
部下が静かに口を開く。
「管理者。」
「封筒は受け取りました。」
男は頷くだけだった。
「反応は。」
「予想通りです。」
数秒の沈黙。
やがて。
男は低い声で言う。
「急ぐな。」
「人は。」
「知りたいことほど。」
「自分から近付いてくる。」
それだけだった。
モニターには。
写真を握ったまま動かない龍平。
男は数秒だけその姿を見つめると、静かに画面を閉じた。
部屋は再び闇へ沈む。
【翌朝・合同捜査本部】
朝。
合同捜査本部。
まだ解散前の慌ただしさが残っている。
拓海は缶コーヒーを二本買い、龍平の机へ向かった。
「おはよ。」
返事がない。
龍平は資料を読んでいる。
いや。
読んでいるようで、一文字も頭へ入っていない。
拓海は缶コーヒーを机へ置いた。
「ブラック。」
「……ありがとうございます。」
いつもの返事。
でも。
何か違う。
拓海は龍平の横顔をじっと見る。
目の下の隈。
微かに乱れたネクタイ。
いつもより遅いページをめくる指先。
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ、様子がおかしい。
「……松本。」
「何ですか。」
「お前。」
「なんかあったろ。」
龍平の手が止まる。
ほんの一瞬。
それだけだった。
「ありません。」
即答。
だが。
拓海は首を傾げる。
「……嘘つけ。」
龍平は顔を上げない。
「仕事の話ですか。」
「違う。」
「じゃあ違います。」
「いや。」
拓海は小さく笑った。
「違わねぇ。」
「お前。」
「何か隠してる。」
龍平は答えない。
その沈黙だけで十分だった。
拓海は缶コーヒーを一本開ける。
プシュッ。
静かな音が部屋へ響く。
「まあ。」
「言いたくなったら言え。」
「俺、聞くから。」
それだけ言うと、自分の席へ戻っていった。
龍平はその背中を見送らない。
ただ。
机の引き出しへ手を伸ばす。
一番奥。
昨夜の写真が、静かに眠っていた。
その裏には、まだあの一文が残っている。
─真実を知りたくないかー
誰もまだ知らない。
これが、終わったはずの事件の、本当の始まりだったことを。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
いいねや感想など、いつも励みになっています。
この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




