第五百三十話 「契約(マリッジ)とは、恋愛感情によって成立する制度のことではなく、互いの傷へ踏み込まないという暗黙の合意を積み重ねた結果、いつしか誰よりも強い信頼だけが残る現象のことである」という話
ジェシカさんは割と好きなキャラです
アメリカ。
ニューヨーク。
ハミルトングループ北米支社、設立準備室。
高層ビルの一角にある会議室には、契約書の紙をめくる音だけが静かに響いていた。
エドワード・ハミルトンは、向かいに座る女性を静かに見ていた。
ジェシカ・ブラウン。
合併予定企業のCEO。
北米支社を本格稼働させるためには、彼女の会社と、その人脈と、
何より彼女自身の判断力が必要だった。
大柄で、姿勢が良く、迷いがない。
言葉は短い。
判断は速い。
愛想で笑うことはないが、面白いと思った時だけ腹の底から笑う。
その笑い方を初めて見た時。
エドワードは、ほんの一瞬だけ遠い日本を思い出した。
世田谷の路地を、泥だらけの靴で走り回る男。
何も考えていないようで、人の本質だけは外さない男。
豪快に笑い、誰かが困っていれば迷わず手を伸ばす男。
”佐伯拓海”。
もちろん、
ジェシカは拓海ではない。
拓海の代わりなど、この世に存在しない。
あの場所は、誰にも渡せない。
渡すつもりもない。
だが。
ジェシカには、どこか似た空気があった。
嘘がない。
腹の底が見える。
必要以上に踏み込まない。
そして、踏み込ませない。
だからエドワードは、珍しく思った。
この人間なら。
少しだけ、私的な領域へ置いてもいいかもしれない。
愛ではない。
情でもない。
ただ。
拒絶する必要がない。
その程度の、静かな許容だった。
「……これで最後?」
ジェシカが書類を閉じた。
「ああ。」
「では、契約成立ね。」
「ありがとう。」
二人は握手を交わす。
乾いた、完璧なビジネスの握手だった。
ジェシカはそのまま立ち上がろうとした。
その背中へ、エドワードは声をかける。
「もう一つ。」
ジェシカが足を止める。
「個人的な話がある。」
彼女は少しだけ眉を上げた。
「珍しいわね。」
だが、驚きはしない。
椅子へ座り直し、腕を組む。
「聞くわ。」
エドワードは、数秒だけ沈黙した。
契約交渉で言葉に詰まったことなどない。
買収。
合併。
整理。
撤退。
いくらでも淡々と告げてきた。
だが、これは”少し違った”。
ハミルトン伯爵として必要な話でありながら、どうしても私的な領域に触れる。
本来なら誰にも触れさせない場所だ。
エドワードは静かに息を吐いた。
「君の条件はすべて飲もう。」
「北米支社の運営権限も、雇用条件も、経営陣の残留も。」
「君が求めたものは、ハミルトンとして保証する。」
ジェシカは黙って聞いている。
「ただし。」
「こちらにも一つだけ条件がある。」
「何?」
エドワードは、真っ直ぐに彼女を見た。
「私と結婚してほしい。」
会議室が静まり返った。
数秒。
ジェシカは驚かなかった。
ただ、エドワードを見た。
仕事の顔ではなく、取引相手を見る目でもなく。
ひとりの人間を測る目だった。
「理由は?」
「後継だ。」
エドワードは短く答える。
「ハミルトン伯爵家には後継が必要だ。」
「それだけ?」
「ああ。」
「伯爵夫人としての公務は求めない。」
「英国へ住む必要もない。」
「君は今まで通り、アメリカでCEOとして働けばいい。」
「私生活へ干渉するつもりもない。」
「君に愛を求めることもない。」
ジェシカは目を細めた。
「ずいぶん正直ね。」
「嘘をつく理由がない。」
「では、あなたは?」
「私?」
「あなたは私を愛せるの?」
エドワードは一瞬も迷わなかった。
「愛せない。」
即答だった。
ジェシカは、そこで初めて笑った。
腹の底から。
「あっはははは!」
会議室に、乾いた契約書類とはまるで似合わない豪快な笑い声が響く。
エドワードは真顔のまま彼女を見る。
「何かおかしかったか?」
「おかしいわよ。」
ジェシカは目尻を拭いながら笑う。
「結婚してほしいと言った相手に、私は愛せないと即答する伯爵様なんて、そうそういないわ。」
「事実だ。」
「でしょうね。」
「だから面白いのよ。」
その笑い方に、また一瞬だけ拓海の影がよぎる。
エドワードは何も言わなかった。
ただ、静かに思う。
”この人間は、嘘をつかない”。
少なくとも、自分を飾るための嘘はつかない。
だから、契約相手として信用できる。
ジェシカは笑いを収めると、改めて腕を組んだ。
「いいわ。」
「条件としては悪くない。」
「ただし、こちらからも一つ提案があるわ。」
「聞こう。」
「後継者は人工授精にしましょう。」
今度こそ。
エドワードの思考が止まった。
「……人工授精?」
「ええ。」
ジェシカは平然と頷く。
「その方が合理的でしょう?」
「妊娠の時期も仕事の状況に合わせて調整できる。」
「互いに恋愛感情も必要ない。」
「身体的な接触も最小限で済む。」
「何より、あなたも私も、その方が楽でしょう?」
エドワードは数秒黙った。
そして。
静かに頷く。
「……確かに。」
「極めて合理的だ。」
ジェシカはまた笑った。
「あっははは!」
「あなた、本当に面白い人ね。」
「そうか?」
「ええ。」
「私、あなたのことは愛せないけれど。」
「一緒に仕事をする相手としては、かなり気に入ったわ。」
「それで十分だ。」
エドワードは立ち上がった。
「では、契約書を準備しよう。」
「早いわね。」
「合意したなら文書化すべきだ。」
「普通は指輪が先では?」
「必要か?」
「世間的には。」
「伯爵として式は挙げる。」
「その時に用意しよう。」
「合理的ね。」
「そうだろう。」
ジェシカは立ち上がり、手を差し出した。
「子供はいつ?」
「北米支社が安定してから。」
「二年後を目安に考えている。」
「分かったわ。」
「では。」
彼女は笑う。
「よろしく、エドワード。」
その言葉にほんの一瞬だけ。
エドワードの指が止まった。
”よろしく”。
かつて、ひとりの日本人が教えてくれた日本語。
一緒にやっていこうぜ。
そんな意味だと、笑っていた。
エドワードは、ジェシカの手を取った。
「……よろしく。」
恋愛はなかった。
情熱もなかった。
だが、互いに嘘はなかった。
この結婚には、それで十分だった。
*************
それぞれの役割
契約書への署名を終えた二人は、もう一度だけ静かに握手を交わした。
恋人同士ではない。
夫婦になる予定の男女とも思えない。
そこにあったのは、ただ一つ。
”互いの責任を、互いが信頼して預け合う者同士の握手”だった。
「では。」
ジェシカが手を離す。
「私は法務に契約書の正式版を回しておくわ。」
「ああ。」
「式の日程も調整しておいて。」
「了解した。」
事務的な会話。
それだけで終わる。
普通なら少しは照れたり、ぎこちなくなったりするのだろう。
だが二人には、それがない。
仕事が一つ増えただけ。
そんな空気だった。
会議室を出る。
ニューヨークの夕陽が、高層ビルの窓ガラスへ赤く映り込んでいた。
エドワードは歩きながら、小さく息を吐く。
(……これでいい。)
ハミルトン伯爵として。
後継者を残す。
爵位を繋ぐ。
誰かを守るためではなく、組織を未来へ繋ぐための責務。
幼い頃から叩き込まれてきた、その義務を果たしただけだった。
だから後悔もない。
迷いもない。
そう、自分へ言い聞かせる。
ふと、足が止まった。
窓の向こうには、忙しく行き交うニューヨークの街。
その喧騒を眺めながら、小さく独り言が漏れる。
「……タクミには。」
「連絡をしなくてはな。」
”結婚する”。
その事実だけは、自分の口から伝えたい。
電話の向こうで、きっと彼は笑う。
「え!? マジで!?」
「おめでとう!!」
何も考えず、心から祝福してくれる。
その姿が容易に想像できてしまう。
思わず口元がわずかに緩んだ。
「……君らしい。」
だが、その笑みも一瞬だった。
すぐに伯爵の表情へ戻る。
一方。
会議室へ一人残ったジェシカは、静かにコーヒーを飲んでいた。
「……ふぅ。」
窓の外を見る。
”変わった男だ”。
そう思った。
結婚を申し込んできたというのに、一度もこちらを女性として見ていなかった。
視線も。
言葉も。
距離も。
すべてが一定だった。
「……面白い人。」
恋をしている男ではない。
かといって、冷たい人間でもない。
何か。
もっと深い場所に、大切にしまい込んだものがある。
そんな目だった。
(誰かいるのね。)
そう思う。
けれど、それ以上は考えなかった。
聞くつもりもない。
契約とは、相手の領域へ踏み込まないことでもある。
それが、この結婚を成立させる条件なのだから。
数日後。
ハミルトンホール。
エドワードは執務室へ戻ると、机の引き出しを静かに開いた。
そこには、古びた一冊のアルバム。
学生時代の写真。
寄宿学校。
大学。
英国中を旅した日々。
そして。
一枚の写真で手が止まる。
二人並んで笑っている。
佐伯拓海。
エドワード・ハミルトン。
「……。」
何も言わない。
ただ静かに写真を見つめる。
やがてアルバムを閉じ、元の場所へ戻した。
「さて。」
机へ向き直る。
伯爵としての仕事は山ほどある。
アメリカ支社。
欧州本部。
日本支社。
契約書。
議会。
明日の予定。
その山を見ながら、小さく笑った。
「結婚したと伝えたら。」
「君は、何と言うだろうな。」
その答えだけは、考えなくても分かる。
『エド、おめでとう!』
屈託なく笑う親友の顔が浮かぶ。
その笑顔を胸の奥へしまい込むように、エドワードは万年筆を手に取った。
インクを確かめる。
書類を開く。
伯爵としての仕事は終わらない。
だが。
今日だけは、ほんの少しだけ心が軽かった。
契約は成立した。
責務も果たせる。
そして何より…
遠い極東には、今も変わらず、自分の幸せを誰よりも喜んでくれる”親友”がいる。
それだけで十分だった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




