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第五百二十七話 「渡航(フライト)とは、親友の危機に駆けつけるための移動手段ではなく、新当主という檻に足首を掴まれた西欧の魔王が、極東への航空券を握り潰しながら歯ぎしりする現象のことである」という話

現在雪森は踏んだり蹴ったりの状況でボロボロになっています(´・ω:;.:...

まるで盛ったような、冗談みたいな不憫状況です。

現場からは以上です。

深夜。

ウィルトシャー・ハミルトンホール。


伯爵執務室。

広い部屋には、紙をめくる音だけが静かに響いていた。


各国支社から届く報告書。

契約書。

監査資料。

買収案件。


先代の死により伯爵位を継承したばかりのエドワード・ハミルトンは、

今日もまた山のような書類と向き合っていた。


二十四歳、まだ若い。

だが、その肩には、世界中へ広がるハミルトングループの全てが乗っている。


そんな執務室へ、一件の定期通信が入った。


『ハミルトン様。』


聞き慣れた声。

ジョージ・ラングレーだった。


「久しいね、ジョージ。」


『こんばんは。』


「日本はどうだい。」


『平和……と言いたいところですが。』


その一言で、エドワードは万年筆を置いた。


ジョージがこの声を出す時は、大抵ろくでもない。


「聞こう。」


短く答える。


ジョージは手元の資料をめくった。


『例の偽造旅券ですが。』


『数年前、英国本部が把握していた偽造ルートの特徴と一致しました。』


部屋が静かになる。


『タクミと松本刑事は、その先へ進み始めています。』


『違和感を拾うタクミ。』


『証拠を積み上げる松本刑事。』


『二人なら、おそらく入口までは辿り着きます。』


一拍置く。


『ですが。』


ジョージの声色が変わった。


『その先にいる相手が、大きすぎます。』


『私の予想が正しければ。』


『大学時代、ハミルトングループが独自に追っていた、あの国際組織です。』


……


……


静寂。


エドワードはゆっくり立ち上がり、窓際まで歩く。

夜霧の向こうには、何も見えない。


「ジョージ。」


『はい。』


「日本へ向かう。」


即答だった。


「航空機を手配してくれ。」


一切の迷いはない。

だが、その瞬間だった。


コンコン。


執務室の扉が静かに叩かれる。


返事を待たずに開いた。


秘書。

総執事。

さらに数名の役員。

全員が一斉に頭を下げる。


「旦那様。」


「申し訳ございません。」


「それはできません。」


エドワードは振り返らない。

窓の外を見つめたまま、小さく口を開く。


「理由を聞こう。」


秘書が静かに前へ出る。


「明日は欧州経済圏との契約締結。」


「明後日は貴族院。」


「週末にはアメリカ法人との統合案件。」


「加えて、本日は中東支社との大型契約が未決裁です。」


「現在、全て旦那様の承認待ちとなっております。」


役員が続ける。


「ここで当主が英国を離れれば。」


「契約は止まります。」


「交渉も止まります。」


「世界中の支社が混乱します。」


「株価への影響も避けられません。」


部屋に沈黙が落ちた。

総執事が静かに頭を下げる。


「若旦那様。」


「今の貴方は、お一人の身体ではございません。」


「ハミルトンそのものなのでございます。」


……


長い沈黙。

エドワードは目を閉じた。


分かっている。

そんなことは。


誰よりも。

分かっている。


学生だった頃なら。

夜中だろうが飛行機へ飛び乗っていた。

講義など放り出して、日本へ向かっていただろう。


だが今は違う。


一人の判断が。

何万人もの生活を動かす。


それが”私”という立場だった。


ゆっくりと机へ戻る。

引き出しを開く。

そこには、一枚の航空券。


ロンドン発 東京(羽田)行き。

ファーストクラス。


何かあれば、すぐ飛べるよう。

数日前から密かに手配していたものだった。


エドワードは、その紙をじっと見つめる。


静かな部屋。

誰も声を出さない。


ギリ……


手袋越しに指先へ力が入る。


メキ。

メキメキ……


最高級の厚紙が、小さく音を立てて歪んでいく。


(……タクミ。)


(君が危険へ近付いているというのに。)


(私は。)


(ここから動くことすら許されない。)


ゆっくりと受話器を持ち直す。


「ジョージ。」


『はい。』


「日本支社へ一任する。」


「資料は全て集めろ。」


「組織の情報。」


「タクミの動き。」


「松本龍平君の捜査状況。」


「変化があれば時間を問わず直接私へ報告してくれ。」


『承知しました。』


通信が切れる。


静寂。

その空気を壊したのは、背後の秘書だった。


「旦那様。」


「一つだけ業務連絡がございます。」


「何だ。」


「その航空券ですが。」


「正式なキャンセル処理をお願いいたします。」


「そのままですと、私費扱いとなりますので。」


……


……


エドワードは無言で航空券を机へ置いた。


しわだらけになった紙を。

指先で一つ一つ。

丁寧に伸ばし始める。

総執事は、その姿を見つめながら小さく目を伏せた。


「……若旦那様。」


「本日一番、お辛いお仕事でございましたね。」


執務室には誰一人笑う者はいなかった。


それでも。


世界中を動かす若き伯爵は、ぐしゃぐしゃになった航空券を真っ直ぐに伸ばしながら、

静かに明日の決裁書類へと手を伸ばした。


やがて、エドワードは一枚の決裁書へ目を落とした。


そこには、屋敷の修繕計画。

長く使われていない建物の一覧。

視線が、一つの名前で止まる。


東館。


……


……


「総執事。」


「はい。」


「東館の修繕計画は、まだ生きていたね。」


総執事は少しだけ意外そうな顔をした。


「はい。」


「老朽化部分の補修のみで、一旦保留となっております。」


エドワードは静かに頷く。


「予定を変更しよう。」


「全面的に手を入れてくれ。」


総執事は確認する。


「ご使用になるご予定が?」


少しだけ間が空く。


エドワードは窓の外を見た。

夜霧の向こうには何も見えない。


「……分からない。」


静かな声だった。


「使わないかもしれない。」


「私の考え過ぎで終わるかもしれない。」


「だが。」


そこで初めて、少しだけ笑う。


本当に小さく。


「帰る場所は、あった方がいい。」


総執事は一礼した。


「かしこまりました。」


翌日。


ハミルトンホール東館。

十年以上止まっていた時計が、静かに動き始める。


その館が、本当の意味で使われる日が来ることを。

この時、まだ誰も知らなかった。

ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

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