第五百二十四話 「誕生とは、一人の子どもが生まれる現象のことではなく、大型犬が「父親」という肩書きを突然インストールされ、周囲が通常運転で大騒ぎする現象のことである」という話
滝美もパパになりました(`・ω・´)
春。
桜も散り、新緑が世田谷の街を優しく包み始めた頃。
サエキ拓海が世田谷署刑事課へ異動してから、季節は静かに一巡していた。
刑事という仕事にも少しずつ慣れ始めた頃。
その日も刑事課は、管内で発生した窃盗事件の対応で慌ただしく動いていた。
調書。
鑑識。
聞き込み。
無線。
いつもの刑事課の日常。
その真ん中で、一台のスマートフォンが激しく震えた。
拓海は画面を見る。
【菜摘】
嫌な予感がした。
「もしもし!」
電話の向こうから聞こえてきたのは、菜摘本人ではなかった。
母・絢子だった。
『——拓海!』
『菜摘さん! 陣痛が始まったわ!!』
拓海の思考が止まる。
「……え?」
「え!?」
「今!? バカちんが!!」
完全停止。
大型犬、フリーズ。
隣で資料を見ていた先輩刑事が顔を上げた。
「佐伯。」
「は、はい!」
「行け。」
「でも先輩!」
「今事件が——」
先輩は資料を閉じた。
「事件は俺たちが引き継ぐ。」
「だから行け。」
一拍。
「お前。」
「もう父親だろ。」
「——走れ。」
その言葉に。
拓海は一瞬だけ目を見開いた。
交番を去る日。
地域課の主任が最後に言った言葉。
『刑事になっても走れ』
あの日は、警察官として。
そして今日。
『父親だろ。走れ』
今度は家族のために。
拓海は力強く頷いた。
「——はい!!」
返事と同時に刑事課を飛び出す。
廊下を駆け抜け。
階段を一段飛ばしで降り。
その背中を見送りながら、先輩刑事が小さく笑った。
「……相変わらず速ぇな。」
病院。
待合室。
自動ドアが勢いよく開く。
「間に合ったかぁぁぁ!!」
息を切らしながら滑り込んできた拓海に、助産師が穏やかに微笑んだ。
「大丈夫ですよ。」
「まだです。」
「落ち着いてください、お父さん。」
「……。」
「まだなんですか?」
「はい。」
「……。」
「すみません。」
一気にしょんぼりする大型犬だった。
待合室では、すでに佐伯家が通常運転で大騒ぎだった。
絢子は落ち着きなく廊下を歩き回っている。
「おむつ!」
「肌着!」
「ベビーカー!」
「哺乳瓶!」
「何が足りないの!?」
拓海が苦笑する。
「母ちゃん。」
「まだ生まれてねぇって。」
「そういう問題じゃないの!」
その横では、和也が新聞を広げて座っていた。
無言。
いつも通り。
パサリ。
新聞を一枚めくる。
絢子が振り向く。
「あなた!」
「何か言ってくださいよ!」
和也は新聞から目を離さない。
「……。」
静かな声で一言だけ。
「待て。」
それだけだった。
けれど新聞を持つ指先だけは、いつもより少しだけ力が入っていた。
「拓海!」
振り返る。
フランスから一時帰国していた詩織が、小走りでやってくる。
「姉ちゃん。」
「菜摘は?」
「今入った。」
詩織はホッと息を吐くと、そのまま拓海の額を軽く叩いた。
「痛っ!」
「落ち着きなさい。」
「一番慌ててどうするの。」
「ご、ごめん。」
詩織は病室の方へ目を向ける。
「菜摘。」
「頑張って。」
その声だけは、とても優しかった。
さらに数分後。
白衣姿の兄が仕事帰りそのまま現れた。
「兄ちゃん!」
兄はため息をつく。
「拓海。」
「騒ぐな。」
「産むのは菜摘さんだ。」
「お前じゃない。」
「……はい。」
兄は助産師と少しだけ話をすると、小さく頷いた。
「順調らしい。」
「そうか!」
「良かった!」
「だから騒ぐな。」
「はい……。」
午後。
病院の受付が少しざわついた。
「すみません。」
「ハミルトン日本支社ですが。」
受付の女性が目を丸くする。
「……全部ですか?」
病院の入口には、大量の花が並んでいた。
バラ。
ユリ。
胡蝶蘭。
そして祝いの品々。
その後ろからジョージが穏やかに歩いてくる。
「おめでとうございます。」
「サエキ。」
拓海は笑った。
「ジョージ!」
「来てくれたのか!」
「当主様からです。」
「祝いは盛大に、とのことです。」
受付の職員が苦笑する。
「病院始まって以来の量ですね……。」
同じ頃。
霧に包まれたウィルトシャー。
ハミルトンホール。
深夜。
ジョージから一本の電話が入る。
「ハミルトン様。」
『どうした。』
「生まれました。」
静かな沈黙。
「元気な男の子です。」
エドワードはゆっくり立ち上がり、窓の外を見つめた。
春の夜風がカーテンを揺らす。
「……そうか。」
それだけだった。
けれど。
その翡翠の瞳は、誰よりも優しかった。
「良かった。」
ジョージが小さく笑う。
「祝いの品は予定通り発送しております。」
「花。」
「ベビーベッド。」
「玩具。」
「絵本。」
「衣類。」
「あと、少しばかり食品も。」
「……全部送ったんだね。」
「もちろんです。」
「タクミの子ですから。」
エドワードは静かに頷いた。
「ありがとう、ジョージ。」
数時間後。
産声が響く。
病室。
小さな命が、拓海の腕の中にいた。
拓海は恐る恐る抱き上げる。
「……。」
「軽ぇ。」
「ちっちぇ。」
「これ……。」
「本当に俺の子か?」
菜摘が疲れた笑顔を浮かべる。
「そうよ。」
「誰の子だと思ってるの。」
拓海は照れくさそうに笑った。
「名前。」
「決めてたんだ。」
菜摘が頷く。
「うん。」
「悠馬。」
「おおらかで。」
「たくましく育つように。」
菜摘は何度かその名前を口にする。
「悠馬。」
「いい名前。」
拓海は小さな寝息を立てる我が子を見つめた。
刑事として救いたい命がある。
夫として守りたい人がいる。
そして今。
腕の中には、自分が何より守りたい命がある。
しばらく黙っていた拓海は、小さく笑って呟いた。
「……守らねぇとな。」
病室には、悠馬の小さな寝息だけが静かに響いていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
いいねや感想など、いつも励みになっています。
この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




