第五百二十二話 「追跡(チェイス)とは刑事が逃走経路を解析し被疑者を追い詰める行為ではなく、先回りした秀才の待ち伏せ地点へ野生の大型犬が被疑者より先に全力疾走で飛び込んでくる現象のことである」という話
新たなコンビ的な
七月。
世田谷署刑事課に異動してから、まだ一週間ほど。
二十六歳になったサエキ拓海は、新調したもののまだ肩に馴染まないスーツ姿で、
刑事課の重たいデスクに座っていた。
地域課とは違う。
あの頃は、無線が鳴れば飛び出し、迷子がいればしゃがみ込み、
道に迷った外国人がいれば英語で笑い、事件が起きればとにかく走った。
”目の前で困っている人を、目の前で助ける”。
それが地域課の仕事だった。
けれど、刑事課は違う。
調書。
聞き込み。
張り込み。
資料整理。
まだ見えていない誰かを助けるために、証拠を拾い、線を繋ぎ、時には何時間も、何日も待つ。
刑事という新しい戦場は、思っていた以上に「座って考える」仕事だった。
「……刑事って、意外と座ってる時間長いんだな、バカちんが……」
ぼそりと漏らした拓海に、隣の席の先輩刑事が笑った。
「事件が起きれば嫌でも走る。それまでは頭使え、佐伯」
「はい!!」
返事だけは、今日も無駄に元気だった。
その時だった。
刑事課のスピーカーから、無線が飛び込んでくる。
『成城署管内より入電。高級自転車窃盗。被疑者、世田谷署管内方面へ逃走中』
空気が変わった。
「佐伯!」
「はい!」
「現場近い。行け!」
「了解です!!」
返事と同時に、拓海は椅子を蹴る勢いで立ち上がった。
ドアへ向かう初速が速すぎる。
残された先輩刑事が、思わず苦笑した。
「……速ぇな、あいつ」
世田谷署と成城署の管轄が隣接する、坂道の多い住宅街。
盗んだロードバイクで逃げる被疑者は、背後から迫る異様な足音に振り返った。
パトカーではない。
白バイでもない。
制服警官でもない。
スーツの男だった。
革靴でアスファルトを蹴り、ネクタイを乱し、汗を飛ばしながら、なぜか笑顔で全力疾走している。
「待てぇぇぇぇ!!」
「止まれ、バカちんがーーー!!」
被疑者は青ざめた。
「何なんだよあの刑事!!」
商店街の端で、買い物袋を提げた老婦人が顔を上げる。
「あら、佐伯さん」
「こんにちはーー!!」
走りながら返事をする。
学生たちが道の端でざわつく。
「また佐伯刑事走ってる」
「今日はスーツだ」
「刑事になっても走ってんのかよ」
被疑者は思わず叫んだ。
「町ぐるみかよ!!」
地域課で二年。
拓海は知らないうちに、街に顔を覚えられていた。
その分、逃走犯にとっては最悪だった。
どこへ逃げても、誰かが「あっち!」と指差す。
そしてその後ろから、大型犬が来る。
一方。
数百メートル先。
成城署刑事課の松本龍平は、住宅街の角で静かに立っていた。
一度だけ地図を見る。
坂道。
袋小路。
公園。
大通り。
被疑者はロードバイクを盗んでいる。
速度を殺したくないなら、細い路地には入らない。
人通りを避けるなら、大通りも選ばない。
残る逃走経路は一つ。
「……ここだ」
腕時計を見る。
三秒。
二秒。
一秒。
龍平は無駄のない動きで一歩前へ出る。
「確保——」
その瞬間だった。
角の向こうから飛び出してきたのは、被疑者ではなかった。
「松本ぉぉぉぉ!!」
「……」
龍平の表情が完全に止まった。
「佐伯さん?」
「先回りすんな、バカーー!!」
「何であなたが被疑者より先に来るんですか」
「追いついた!」
「違います」
「お前もいるじゃねぇか!」
「私は待ち伏せをしていたんです」
「だったら一緒に追えよ!」
「追わなくていいから待っていたんです!!」
二人が言い争えたのは、ほんの数秒だった。
キィィッ、と急ブレーキの音。
目の前で、被疑者が固まっている。
右。
無表情で手錠を構える成城の刑事。
左。
笑顔で息を切らしている世田谷の災害。
「……」
被疑者は呟いた。
「どっちも嫌だ……」
「今だ、バカちんが!」
拓海が正面から飛び込む。
同時に、龍平がミリ単位で足を払う。
ドサッ。
被疑者はあっけなく地面に転がった。
龍平が手錠を掛ける。
「確保」
拓海は膝に手をつき、息を整えながら笑った。
「ほら、捕まった。ノーカンだろ」
龍平は深く、長いため息を吐いた。
「刑事になってまで、ただ走るだけなんですね。あなたは」
「しょうがねぇだろ」
拓海は笑う。
「交番出る日に、主任に言われたんだよ」
「……?」
「刑事になっても、走れって」
一瞬だけ、龍平が黙った。
その主任の顔を、龍平は知らない。
けれど。
佐伯拓海という人間を二年近く地域課で育て、最後にその言葉を渡した上司がいたことだけは分かった。
(……そういう上司だったのか)
龍平は何も言わない。
ただ、いつものように目を伏せた。
「……チッ」
そして調書の準備へ向かった。
世田谷署へ戻ると、刑事課は軽く騒ぎになっていた。
「また佐伯が走ったのか」
「しかもスーツで坂道だろ?」
「成城の松本もいたらしいぞ」
「結果、一番早く捕まえてるじゃねぇか」
笑い声が広がる。
誰かが冗談半分に言った。
「境界線の合同事案、次から佐伯と松本呼べばいいんじゃないか?」
「そりゃいい」
「あの二人なら何とかなるだろ」
資料を整理していた龍平が、即座に顔を上げた。
「やめてください」
拓海は笑う。
「いいじゃん。効率いいだろ」
「嫌です」
「何でだよ」
「あなたとセット扱いされること自体、業務上の重大な不利益です」
「ひでぇな!」
刑事課にまた笑いが起きる。
その時、ベテラン刑事が資料をまとめながら言った。
「佐伯。松本」
「はい!」
「……はい」
「次も二人で行け」
龍平の眉間に皺が寄る。
「断ります」
「もう決まってる」
拓海がぱっと笑った。
「よろしくな、松本!」
龍平は、今日一番深い沈黙のあとで。
「……チッ」
とだけ言った。
こうして、世田谷署刑事課と成城署刑事課の境界線で、本人たちの意思を完全に無視したまま。
【佐伯と松本】
その呼び方が、ひっそりと現場に登録された。
その日の夕方。
ハミルトン日本支社。
ジョージは極東の現場報告を確認していた。
世田谷署。
成城署。
合同事案。
報告欄の片隅に、見慣れない組み合わせがある。
世田谷署刑事課・佐伯拓海
成城署刑事課・松本龍平
合同対応。
被疑者確保。
ジョージはしばらくその二つの名前を見つめた。
やがて、小さく笑う。
「……なるほど」
資料を閉じる。
そして、週次報告用のフォルダへ静かに保存した。
ハミルトン様への極東レポート。
その項目に、彼は一行だけ追記する。
”佐伯刑事および松本刑事、境界線事案にて継続運用の可能性あり”。
まだ誰も知らない。
このたった一行が、遠くウィルトシャーのハミルトンホールで、
ある伯爵の胃壁を静かに削る第一撃になることを。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




