第五百二十話 「事後パケット(命)とは生還を祝福する現象のことではなく野生の大型犬が「部屋狭くね?」と生活設計を始めた結果、極東の実家と西欧の魔王の胃壁を最高出力で大爆破する現象のことである」という話
意外と拓海は現実的?
六月某日。
世田谷の家賃数万円、線路沿いのワンルームマンション。
高坂の「最後の賭け」を経て、恋人でも夫婦でもないまま始まった、
菜摘による"生活管理代行"も、すっかり日常になっていた。
夕方。
静かな洗面所。
菜摘は一本の妊娠検査薬を、じっと見つめていた。
二本線。
「……。」
ゆっくり息を吐く。
リビングでは、交番勤務から帰ってきた拓海が制服を脱ぎながら麦茶を飲んでいる。
「拓海。」
「ん?」
菜摘は検査薬を差し出した。
「……できた。」
拓海は黙って受け取る。
数秒。
検査薬と菜摘を見比べる。
「……。」
「……。」
「そっか。」
一拍。
「子どもか。」
菜摘は静かに頷く。
その直後だった。
拓海は部屋をぐるりと見回した。
「……ワンルーム、狭くね?」
「そこ!?」
菜摘が思わず叫ぶ。
「いや。」
拓海は真面目だった。
「赤ちゃんどこ置くんだ。」
「俺、床?」
「収納も足りねぇし。」
「まず引っ越しだろ。」
菜摘は額を押さえた。
「違う!」
「その前に考えることあるでしょうが!」
「……?」
「結婚!!」
「あ。」
拓海は本気で今気付いたような顔をした。
「そっか。」
「じゃあ籍入れるか。」
「あと引っ越そう。」
「子ども産まれるまでには間に合わせよう。」
菜摘はしばらく黙っていた。
そして吹き出した。
「……もう。」
「ほんとバカ。」
派手なプロポーズなんてない。
指輪もない。
あるのは、これから生まれてくる子どもの居場所を本気で考え始めた大型犬だけだった。
千代田区・佐伯家
その日の夜。
菜摘から一本の電話が入る。
「お義母さん。」
「どうしたの?」
「……子ども、できた。」
……
……
「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」
佐伯家に母・絢子の絶叫が響き渡った。
「ちょっと待って!」
「今どこ!?」
「病院は!?」
「ご飯食べた!?」
「とにかく二人とも今すぐ来なさい!!」
電話を切るや否や、絢子は次の番号を押した。
「詩織!」
『……お母さん?』
「今、日本にいるわよね!?」
『いるけど。』
『どうしたの?』
「拓海が!」
「子ども!!」
……
『……は?』
「いいから来て!!」
数十分後。
佐伯家の玄関が勢いよく開く。
「お、姉ちゃん。」
十歳上の姉・詩織は弟の顔を見るなり歩み寄り……
”バシィッ!!”
乾いた音が響いた。
「痛ってぇ!!」
「何すんだよ!」
詩織は腕を組んだまま言う。
「あんた。」
「父親になるの?」
「なる。」
「そう。」
一拍。
「十年早い!」
バシッ。
「だから何で二発!!」
菜摘が慌てて止める。
「ご、ごめん、詩織さん。」
詩織は首を振った。
「菜摘ちゃんは悪くない。」
「悪いのは、この脳みそがマヨネーズで出来てる大型犬。」
「また俺だけ!?」
そのまま詩織の質問攻撃が始まる。
「病院は?」
「行った。」
「母子手帳。」
「これから。」
「引っ越し先。」
「探す。」
「貯金。」
「……ある。」
「保険。」
「確認する。」
「菜摘は仕事どうするの。」
「……。」
「質問多い!」
「父親になるんでしょ!」
拓海は返す言葉がない。
散々説教したあと。
詩織は弟の頭をぽんと叩いた。
「……まあ。」
「頑張りなさい。」
それだけだった。
ソファでは和也が新聞を読んでいる。
「あなた!」
絢子が叫ぶ。
「何とか言って!」
和也は新聞を一枚めくる。
「……。」
「引っ越し先。」
「決めたか。」
拓海と菜摘が同時に振り返る。
「そこ?」
和也は新聞を閉じる。
「子どもは。」
「狭い部屋じゃ育てられん。」
「探せ。」
「はい。」
親父もやっぱり、生活第一だった。
一方、絢子は完全に暴走している。
「ベビーカー!」
「服!」
「チャイルドシート!」
「名前!」
「まだ三ヶ月だから!!」
佐伯家はいつも通り、大騒ぎだった。
八歳上の兄からは、病院の当直室から一本だけ電話が来た。
「兄ちゃん。」
『ああ。』
『妊娠したんだって?』
「おう。」
『おめでとう。』
『菜摘さんは走らせるな。』
『酒は絶対禁止。』
『何かあったら俺に電話しろ。』
一拍。
『あと。』
『姉ちゃんには一回くらい殴られとけ。』
ガチャ。
「兄ちゃんまでかよ!」
日本支社
翌日。
拓海はジョージへ電話をかけた。
「ジョージ。」
「子どもできた。」
ジョージは数秒黙った。
「……まずは、おめでとう。」
「ありがとう。」
「ハミルトン様には?」
「俺が言う。」
ジョージは小さく笑った。
「そう。」
「その方が、きっと喜ぶ。」
ロンドン・ハミルトンホール
深夜。
国際電話が繋がる。
「タクミ。」
「久しぶりだね。」
「おう。」
「報告。」
「何だい?」
「俺。」
「結婚する。」
静かな沈黙。
エドワードの口元がゆっくり緩む。
「……そうか。」
「おめでとう。」
「本当に。」
「ありがとう。」
拓海は続けた。
「あと。」
「子どもできた。」
……
……
……
エドワードの手が止まる。
次の瞬間。
「ゴフッ!!」
最高級のダージリンが見事に気管へ入り込んだ。
「……っ!」
盛大に咳き込む。
拓海は電話の向こうで首を傾げる。
「エド?」
「……タクミ。」
「ん?」
「順番。」
「え?」
「情報を伝える順番だ。」
「結婚。」
「引っ越し。」
「子ども。」
「そこは一つずつ伝えたまえ。」
拓海は笑った。
「細けぇなぁ。」
「バカちんが。」
電話が切れたあと。
静まり返った執務室。
エドワードは椅子にもたれ、小さく笑う。
「……本当に。」
「君らしい。」
そして窓の外の夜空を見上げた。
親友が、一人ではなくなった。
その事実だけで、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「おめでとう、タクミ。」
誰もいない執務室で。
ハミルトン伯爵はもう一度だけ、小さくそう呟いた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




