第五百十八話 「評価(システム)とは、肩書きではなく、世田谷の泥の中で一年半積み重ねた『放っておけない』という重力が、静かに見出される現象のことである」という話
「Excuse me, officer.」
(すみません、お巡りさん)
五月。
穏やかな昼下がりの世田谷。
駅前で地図を片手に困っていた外国人観光客へ、制服姿の警察官が足を止める。
「道、分からない?」
笑顔で尋ねる。
相手は安堵したように頷いた。
拓海はスマートフォンの地図を覗き込みながら、流れるような英語で目的地までの道順を説明していく。
「Go straight along this street and turn right at the second intersection.
It takes about ten minutes on foot.」
(この通りを真っすぐ行って、二つ目の交差点を右です。歩いて十分くらいですよ。)
「Thank you very much.」
(どうもありがとう!)
「You're welcome. Have a nice day.」
(どういたしまして!いい一日を!)
観光客が笑顔で手を振る。
拓海も軽く手を振り返し、何事もなかったように交番へ戻っていく。
誰も驚かない。
世田谷署地域課では、それはもう珍しい光景ではなかった。
配属されて一年半。
二十五歳になった佐伯拓海は、もう新人ではない。
外国人観光客への道案内。
落とし物の対応。
パスポート紛失の相談。
英語での事情聴取。
それらは今では、彼の日常業務の一部として、ごく自然に組み込まれていた。
もちろん、その頃。
隣接する成城署では、松本龍平もまた地域課で着実に実績を積み重ねていた。
冷静な判断力。
正確な報告書。
規律を乱さない勤務態度。
二人は別々の場所で、それぞれ違う警察官へと成長していた。
そんなある日の午後。
駅前ロータリーが一気に騒がしくなる。
「ひったくりです!」
外国人旅行者がバッグを奪われた。
さらに唯一の目撃者も外国人。
現場へ駆け付けた警察官たちが事情を聞こうとするが、被害者は興奮しきって言葉にならない。
そこへ、自転車を止めた拓海が駆け寄った。
「Hey. Look at me.」
(こっちを見て)
相手の視線が拓海へ向く。
拓海は相手の肩へそっと手を置き、落ち着いた声で言った。
「You're safe now.」
(もう大丈夫だよ)
その一言だけだった。
震えていた肩から少しだけ力が抜ける。
呼吸が落ち着く。
拓海は急かさない。
ゆっくり頷きながら相手の言葉を待つ。
「ゆっくりでいい。」
「犯人はどっちへ行った?」
英語と日本語を自然に織り交ぜながら情報を整理していく。
特徴。
逃走方向。
服装。
最後に見た場所。
必要な情報だけを短時間でまとめると、すぐ無線へ流した。
「被疑者、黒のパーカー、東口方面へ逃走──。」
現場は一気に動き始める。
その様子を少し離れた場所から、一人の刑事が静かに見つめていた。
事案が落ち着いたあと。
刑事は交番主任のところへ歩み寄る。
「あの佐伯。」
主任が振り返る。
「はい。」
刑事は拓海の背中を見ながら、小さく呟いた。
「英語だけじゃないな。」
主任は少し笑う。
「え?」
「あいつ。」
刑事は短く言った。
「人の懐へ入るのが、異常に上手い。」
主任は苦笑する。
「そうですね。」
「規律は時々破りそうになりますし、面倒事にも首を突っ込みます。」
一拍置いて。
少しだけ誇らしげに笑った。
「でも。」
「困っている人だけは、放っておけない奴なんですよ。」
刑事は静かに頷く。
「……それが欲しい。」
その一言だけ残し、踵を返して歩いていく。
異動の話は、まだ出ない。
けれど。
地域課で泥にまみれ続けた一年半が、静かに誰かの目へ留まった瞬間だった。
夜。
世田谷のワンルーム。
「あー……疲れた。」
玄関の扉を開ける。
「おかえり。」
キッチンから菜摘が顔を出した。
「味噌汁できてるよ。」
拓海は帯革を外しながら笑う。
「ただいま。」
制服を脱ぎ、椅子へ腰を下ろす。
「今日も助かった。」
その一言に、菜摘も笑った。
「いただきます。」
「いただきます。」
「好きです。」
もない。
「付き合ってください。」
もない。
高坂との別れから始まった"今だけ"という約束は、いつの間にか二人の生活そのものになっていた。
誰も同居を決めていない。
それでも「おかえり」と「ただいま」は、もう当たり前の言葉として、この部屋に根付いていた。
イギリス・ウィルトシャー。
深夜のハミルトンホール。
ジョージから状況報告がと届く。
「タクミの報告だよ。」
エドワードは書類から目を上げる。
刑事課の人間が拓海へ興味を示したという報告。
ワンルームでの穏やかな生活。
それらを静かに読み終え、窓の外へ視線を向けた。
(……刑事課か。)
小さく息を吐く。
(やはり、そこへ行くんだね。)
静かなウィルトシャーの夜。
親友が歩み始めた新しい道を思いながら、エドワードは再び目の前の書類へ視線を戻した。
その頃、日本では。
拓海はまだ知らない。
この評価が、自分を新たな事件と、新たな再会へ導いていくことを。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




