表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
572/589

第五百十七話 「同居(イマダケ)とは「好きだから一緒にいる」という恋愛の理屈ではなく、気が付けば誰よりも先にその人の生活を心配し、誰よりも自然に「帰る場所」へ足を向けてしまう現象のことである」という話

まぁ最初からそうですしね・・・

五月の終わり。

夕暮れ。


駅前の雑踏を、菜摘は一人歩いていた。

高坂と別れたあとだった。


胸の奥が、ひどく重い。


「……。」


さっきまでの会話が何度も頭の中を巡る。


『結婚してください。』


『ごめん。』


『やっぱり。』


『賭けだったんだ。』


思い出すたび、胸が締め付けられる。


高坂は何も悪くない。


優しかった。

誠実だった。

最後まで自分を責めなかった。


それなのに、自分は。


「……最低。」


ぽつりと呟く。

改札を抜け、ホームへ降りる。


電車が滑り込んでくる。

何も考えずに乗った。

窓の外を流れる景色を眺めながら、ぼんやりと考える。


(あたし、高坂くんと結婚するって事、一度も考えたことなかったんだな。)


その事実が、あまりにも衝撃だった。


嫌いじゃない。

むしろ好きだった。

大切だった。


でも。


"家族になる未来"だけは、一度も思い浮かべたことがなかった。


代わりに浮かんできたのは。


世田谷の狭いワンルーム。

床で寝ている大型犬。

空っぽの冷蔵庫。

カップ麺。

洗濯物。


「……。」


菜摘は顔を覆う。


「もう、何なんだよ……。」


情けなくて笑えてくる。

電車が駅へ滑り込む。


アナウンスが流れる。

そこで初めて、菜摘は気付いた。


「……え?」


世田谷だった。


「…………。」


降りるつもりなんてなかった。


でも。

身体は勝手にホームへ降りていた。


「……何やってんの、あたし。」


苦笑する。

それでも足は止まらない。


住宅街を歩き。

見慣れたマンションへ着く。


エレベーターのボタンを押す。


一番奥。

見慣れたドア。

チャイムを押す。


ピンポーン。


……


返事がない。

もう一度押す。


ガチャ。


ゆっくりと扉が開く。


寝癖。

よれたTシャツ。

下はパンツ1枚。

眠そうな目。


「……菜摘?」


拓海だった。


「あれ。」


「今日どうした。」


菜摘は答えない。

部屋の中を見る。


……


……


昨日までより散らかっていた。


コンビニの袋。

脱ぎっぱなしのシャツ。

テーブルには食べ終わったカップ麺。

床には丸まったタオル。


「……。」


拓海が首を傾げる。


「何?」


菜摘は靴を脱いだ。

そのまま部屋へ入る。


「え。」


「おい。」


「勝手に入るな。」


「拓海。」


「ん?」


「今日、ご飯食べた?」


「昼。」


「何。」


「カップ麺。」


「夜。」


「まだ。」


「洗濯。」


「……。」


「掃除。」


「……。」


「ゴミ。」


「……。」


質問されるたびに、拓海の声が小さくなっていく。

菜摘は大きくため息をついた。


「ほら。」


「やっぱり。」


「忙しいんだよ。」


拓海は頭を掻く。


「朝早いし。」


「帰ってくるの遅いし。」


「休みの日は寝ちゃうし。」


「分かってる。」


菜摘は静かに頷く。


だからこそ。

放っておけなかった。


冷蔵庫を開ける。


「……。」


案の定だった。


卵。

マヨネーズ。

ペットボトルのお茶。


それだけ。


「買い物行ってないの?」


「行こうとは思ってた。」


「いつ。」


「今度。」


「その"今度"が来ないんでしょ。」


「……。」


図星だった。


菜摘は冷蔵庫を閉める。


少しだけ黙る。


そして。

ゆっくりと振り返った。


「拓海。」


「ん?」


「しばらく。」


一呼吸。


「今だけ。」


「こっち来る。」


「……は?」


拓海は固まった。


「いや。」


「何言ってんだ。」


「仕事落ち着くまで。」


「今だけ。」


「今だけって。」


「このままだと。」


菜摘は真っ直ぐ拓海を見る。


「本当に倒れる。」


「そんな大袈裟な。」


「大袈裟じゃない。」


「寝る。」


「食べない。」


「洗濯しない。」


「掃除しない。」


「ゴミ出さない。」


「……。」


「これで倒れない方がおかしい。」


拓海は困ったように笑う。


「でもさ。」


「菜摘にも生活あるだろ。」


「ある。」


「仕事も。」


「ある。」


「だから。」


少しだけ照れ臭そうに笑う。


「今だけ。」


「通う。」


「……。」


「仕事終わったら来る。」


「ご飯作る。」


「洗濯する。」


「掃除する。」


「落ち着いたら帰る。」


「今だけだから。」


拓海は何も言えなかった。

断る理由が、見つからなかった。


その日の夜。

スーパーの袋を両手に提げて戻ってきた菜摘は、当たり前のように台所へ立った。


包丁の音が響く。

味噌汁の湯気が立ち上る。

久しぶりに、人のいる部屋の音がした。


「できたよ。」


「おう。」


向かい合って座る。


「いただきます。」


「いただきます。」


拓海は味噌汁を一口飲み、


「……うめぇ。」


と小さく笑った。


その笑顔を見た瞬間。

菜摘は胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。


(……これでいい。)


恋人だからじゃない。

義務だからでもない。


ただ。


”この人がちゃんと生きていけるように”。


今だけ。

本当に、今だけ。

そう思っていた。


けれど、その「今だけ」は翌日も、その次の日も続き、気が付けば歯ブラシが一本置かれ、

着替えが増え、休日には洗濯物が二人分になり――。


誰も「一緒に暮らそう」とは言わなかった。

それでも、二人の生活は、静かに同じ時間を刻み始めていた。



ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ