五百十六 「決別(アンサー)とは、長い時間をかけて育ててきた未来を手放す行為ではなく、相手の瞳に映る「本当に帰りたい場所」を見つけた瞬間、それを奪わないと決める最後の優しさのことである」という話
でしょうね(´・ω:;.:...
五月下旬。
休日。
柔らかな陽射しが降り注ぐ公園は、親子連れや散歩を楽しむ人たちで穏やかに賑わっていた。
噴水の水音だけが、静かに時間を刻んでいる。
「待った?」
小走りでやって来た菜摘が笑う。
「いや。」
高坂も穏やかに笑い返した。
「僕も今来たところ。」
「嘘。」
「絶対十分くらい前からいたでしょ。」
「……ばれた?」
「ばれる。」
二人で笑う。
その空気は、付き合い始めた頃と何も変わらない。
仕事の話。
休日の話。
最近見た映画。
他愛もない会話を交わしながら、公園をゆっくり歩く。
高坂は何度も思う。
(この時間が好きだった。)
無理をしなくていい。
沈黙も苦じゃない。
隣を歩く速度まで自然に合う。
だから。
ずっと、この先も続くものだと思っていた。
噴水の前で、高坂は静かに足を止めた。
「菜摘。」
「ん?」
「少しだけ、真面目な話をしてもいい?」
「うん。」
菜摘は笑ったまま頷く。
高坂は深く息を吸う。
「社会人になって、二年。」
「学生の頃から考えれば、もっと長い付き合いになる。」
「そうだね。」
「僕は。」
少しだけ照れ臭そうに笑う。
「ずっと君と一緒に歳を取るんだろうなって思ってた。」
菜摘の笑顔が少しだけ止まる。
高坂はポケットから、小さな箱を取り出した。
「焦るつもりはない。」
「今すぐじゃなくてもいい。」
「でも。」
「僕は本気だ。」
箱を開く。
小さな指輪が、午後の光を受けて静かに輝いた。
「菜摘さん。」
「僕と結婚してください。」
風が吹く。
木々が揺れる。
噴水の音だけが静かに響いていた。
菜摘は何も言えなかった。
”結婚”。
その言葉を、自分へ向けられたのは初めてだった。
高坂くんと結婚する。
朝起きて。
同じ家で暮らして。
年を重ねて。
子どもが生まれて。
そんな未来を想像しようとして……
頭の中に浮かんだのは。
世田谷の狭いワンルームだった。
床で寝ている拓海。
空っぽの冷蔵庫。
散らかった洗濯物。
「腹減った。」
間の抜けた声。
「……。」
菜摘は目を見開く。
(え。)
違う。
今考えるのは、高坂くんだ。
もう一度考える。
高坂くんと結婚する。
高坂くんの家。
高坂くんとの生活。
けれど。
その未来を考えようとするたびに。
「あいつ、ご飯ちゃんと食べたかな。」
そんな、場違いな考えが入り込んでくる。
「……あ。」
胸の奥で、何かが音を立てた。
(違う。)
違う。
違う。
そうじゃない。
「あたし……。」
高坂は何も言わない。
急かさない。
ただ静かに待っている。
菜摘は震える声で、小さく呟いた。
「……ごめん。」
涙がこぼれる。
「高坂くん。」
「ごめん。」
高坂は静かに目を閉じた。
そして、小さく笑った。
「うん。」
その一言だけだった。
菜摘は泣きながら首を振る。
「違うの。」
「違うの。」
「違うの……。」
何が違うのか、自分でも分からない。
ただ。
今、初めて分かった。
「あたし……。」
震える唇から、言葉がこぼれる。
「高坂くんじゃ、なかった。」
その瞬間。
高坂はゆっくりと息を吐いた。
悲しい。
苦しい。
それでも、不思議と驚きはなかった。
「……そうか。」
静かに笑う。
「やっぱり。」
菜摘が顔を上げる。
「やっぱり?」
「賭けだったんだ。」
高坂は指輪の箱を閉じた。
「もしかしたら。」
「僕の勘違いかもしれないって。」
「そう思いたかった。」
「でも。」
少しだけ肩をすくめる。
「違ったみたいだ。」
菜摘は涙を拭いながら首を振る。
「ごめん。」
「本当に、ごめん。」
高坂はその謝罪を遮るように、ゆっくり首を振った。
「謝らなくていい。」
「え……。」
「君は。」
少しだけ笑う。
「今、初めて気付いたんだろ。」
菜摘は何も言えなかった。
その通りだった。
浮気なんてしていない。
隠していた訳でもない。
ただ。
今日、この瞬間まで、自分でも知らなかっただけだった。
高坂は最後に一歩だけ近付いた。
「幸せになって。」
その言葉に、嘘はなかった。
「……ありがとう。」
「それと。」
少しだけ悪戯っぽく笑う。
「佐伯くんには。」
「ちゃんと飯食わせてあげて。」
菜摘は思わず泣き笑いになる。
「……うん。」
「言われなくても。」
高坂は頷く。
その答えだけで十分だった。
”彼女の帰る場所は、最初からそこだったのだ”。
静かに背中を向ける。
振り返らない。
振り返れば、きっと前へ進めなくなるから。
夕暮れの公園を歩き去る高坂の背中を、菜摘はただ見送ることしかできなかった。
その胸には、一人の誠実な人を失った痛みと、ようやく見つけてしまった自分の本当の気持ちが、
静かに残っていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




