五百十五話 「恋愛(プログラム)とは、未来を二人で描いていた者が、何気ない会話から、自分の知らない「もう一人の日常」に気付き、静かに世界の重心がずれていたことを知る現象のことである」という話
高坂君(´;ω;`)
四月。
金曜日の夜。
都内の駅前から少し離れた居酒屋は、仕事帰りの会社員たちで賑わっていた。
暖簾をくぐると、炭火で焼かれる焼き鳥の香りが鼻をくすぐる。
店員の威勢のいい声。
グラスが触れ合う音。
あちこちから聞こえる笑い声。
そんな、ごくありふれた夜だった。
「お疲れさま。」
「お疲れ。」
ジョッキを軽く合わせる。
付き合って六年。
社会人になって二年。
学生だった頃と比べれば会える時間は減った。
それでも月に何度かこうして食事をして、近況を話す。
そんな時間が、高坂は好きだった。
「仕事どう?」
「やっと少し落ち着いたかな。」
菜摘は枝豆をつまみながら笑う。
「四月は異動も新人もいて大変だった。」
「そっちは?」
「僕も似たような感じ。」
「忙しい?」
「忙しいけど慣れたよ。」
他愛もない会話。
会社の話。
上司の愚痴。
新人教育。
休日の予定。
何も変わらない。
そう思っていた。
料理が運ばれてくる。
焼き鳥。
だし巻き玉子。
揚げ出し豆腐。
二人で箸を伸ばす。
「そういえば。」
菜摘が思い出したように笑った。
「また拓海の部屋、行ってきた。」
高坂は思わず笑う。
「また?」
「うん。」
「もう何回目だろ。」
苦笑しながらジョッキを持つ。
「あいつさ。」
「この前片付けたばっかりなのに。」
「もう元通り。」
「そんなに?」
「そんなに。」
二人で笑う。
高坂も笑う。
「今回は何だったの?」
「別に。」
菜摘はあっさり答えた。
「実家寄るついで。」
「様子見て。」
「ちょっと片付けて。」
「ご飯作って。」
「帰ってきただけ。」
"だけ"
その言い方が妙に自然だった。
「佐伯くん、忙しいもんね。」
「うん。」
「警察入ってから本当に忙しそう。」
「電話も全然出ないし。」
「寝てる?」
「大体寝てる。」
菜摘は笑う。
「あいつ昔から変わらない。」
「疲れるとすぐ床で寝る。」
「布団あるのに。」
「風邪引くじゃん。」
「そう言っても聞かないし。」
文句を言っている。
でも。
どこか楽しそうだった。
高坂はビールを一口飲む。
昔から。
菜摘は拓海の話をよくしていた。
幼馴染だから。
家族みたいなものだから。
そう思っていた。
だから。
何も気にしたことはなかった。
「今度また行こうかな。」
菜摘がぽつりと言う。
「ゴールデンウィーク?」
「うん。」
「実家帰るし。」
「その帰り。」
「また散らかってそうだから。」
高坂は笑う。
「佐伯くん、本当に手が掛かるね。」
「ほんと。」
菜摘は即答した。
「昔からそう。」
「放っておくと生活終わるもん。」
その言葉に笑いながら。
高坂はふと思った。
(また。)
(行くんだ。)
今まで何度行ったのだろう。
掃除をして。
洗濯をして。
食材を買って。
料理を作って。
それはもう、一度や二度ではない。
(もし。)
仕事が忙しくて。
部屋が散らかって。
食事もまともに取れなくなって。
そんな生活をしていたのが、”自分”だったら。
菜摘は同じように部屋まで来てくれるだろうか。
スーパーへ寄って。
冷蔵庫を満たして。
洗濯機を回して。
「ちゃんと食べなさい。」
そう笑って帰っていくだろうか。
考える。
菜摘は優しい。
困っている人を放っておけない。
だから。
助けてはくれるかもしれない。
でも、
きっと違う。
ここまで自然には。
ここまで当たり前には。
”しない”。
そう思った瞬間。
胸の奥で、小さく何かが軋んだ。
「高坂くん?」
菜摘が首を傾げる。
「どうしたの?」
「いや。」
高坂は笑った。
「何でもない。」
嘘だった。
何でもなくはない。
でも。
まだ言葉にならない。
料理は少しずつ減っていく。
店内の賑わいも、時間とともに穏やかになっていく。
菜摘は楽しそうに笑っている。
何も変わらない。
変わっていないはずなのに。
高坂だけが。
少しずつ気付き始めていた。
菜摘は拓海を好きなのではない。
それは分かる。
恋人として見ている訳でもない。
そうじゃない。
もっと前から。
もっと昔から。
呼吸をするように。
生活の中に。
佐伯拓海がいる。
それは恋ではない。
もっと自然で。
もっと深くて。
家族とも少し違う。
積み重ねた時間だけが作れる距離だった。
そして。
『そこへ自分は入れない』
いや。
入る必要すらない場所なのだ。
そのことを。
高坂は初めて理解した。
(今年、伝えようと思ってた。)
結婚のこと。
将来のこと。
一緒に歩いていきたいこと。
全部。
もう少し仕事が落ち着いたら。
もう少し余裕ができたら。
そう思っていた。
でも。
今日、初めて分かった。
菜摘が見ている未来と。
自分が見ている未来は。
少しだけ、違っていた。
高坂は静かに息を吐く。
夜空を見上げる。
春の風は優しかった。
(……それでも。)
(一度だけ。)
(ちゃんと伝えてみよう。)
(もし違っていたなら。)
(その時は、その時だ。)
その決意は、まだ希望を捨てたものではなかった。
諦めではない。
逃げでもない。
ただ、自分の人生に区切りをつけるための、誠実な覚悟だった。
ゆっくりと歩き出す高坂の背中を、駅前の灯りが静かに照らしていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




