第五百十四話 「同期(セクタ)とは、交番(現場)の泥にまみれて「組織(システム)の歯車」として働くことを覚えた二人が、管轄という境界線の上で、和解なき敬礼を交わす現象のことである」という話
あとちょっと!あとちょっと!(そこからが長い説)
五月。
新緑が世田谷の街を鮮やかに染め始めた頃。
地域課へ配属されて二か月。
サエキ拓海は、ようやく制服という名の「仕事」を身体に馴染ませ始めていた。
警察学校を卒業したばかりの頃のように、無線が鳴るたび右往左往することは少なくなった。
交番勤務。
巡回。
遺失物。
交通整理。
酔っ払い。
夫婦喧嘩。
迷子。
一つ一つは決して派手ではない。
それでも、一日として同じ日はなかった。
「佐伯。」
「はい!」
「巡回行ってこい。」
「了解です!」
制服の裾を翻し、自転車へ飛び乗る。
春風を切って住宅街を駆け抜けながら、拓海はふと苦笑した。
(……最初は、走ってばっかだったな。)
警察学校。
龍平に言われた言葉。
『その先を考えていますか。』
あの日以来。
拓海は何かをするたび、一拍だけ考える癖がついた。
助ける。
それで終わりじゃない。
その先は。
班は。
周りは。
現場は。
考える。
それから動く。
まだ完璧じゃない。
それでも。
「考えながら走る。」
それだけは毎日、自分に言い聞かせていた。
「お巡りさん。」
交差点で、自転車を止められる。
振り返ると、大きなスーツケースを引いた外国人夫婦が困ったような顔をしていた。
女性が地図を広げる。
「Excuse me...」
(あの、すみません…)
「Could you tell us how to get to Gotokuji Temple?」
(豪徳寺への行き方を教えていただけますか?)
拓海は一瞬だけ地図を見た。
「ああ。」
「Sure.」
(もちろん!)
自然だった。
考えるより先に英語が口から出る。
「Go straight for about three hundred meters.」
(まず、まっすぐ300メートルほど進んで)
「Then turn right at the second traffic light.」
(二つ目の信号得を右に曲がって)
「You'll see the station on your left.」
(そうすると、左手に信号が見えてくる。)
「The temple is about five minutes from there.」
(お寺はそこから5分くらいだね)
男性が笑顔になる。
「Thank you very much, officer.」
(お巡りさん、ありがとう!)
「You're welcome.」
(問題ないさ)
「Have a nice trip.」
(いい旅しろよ!)
「You too!」
(あなたも!)
二人は何度も頭を下げながら歩いていった。
その様子を、後ろから巡回車で来た主任が眺めていた。
「……佐伯。」
「はい?」
「お前さ。」
「はい。」
「英語だけは本当に反則だな。」
拓海は首を傾げる。
「え?」
「普通ですけど。」
主任は盛大にため息をついた。
「普通じゃねぇ。」
「交番勤務で普通に世間話まで出来る新人がどこにいる。」
「イギリスいたんで。」
「それを先に言え。」
「言いました。」
「聞いてねぇ。」
交番内に笑いが起こる。
まだ配属されて二か月。
けれど。
交番の空気は少しずつ変わっていた。
「字は汚ぇ。」
「報告書は遅ぇ。」
「余計なところで全力疾走する。」
問題児。
でも。
外国人対応だけは。
「佐伯!」
「頼む!」
それが当たり前になり始めていた。
午後。
今度は迷子。
五歳くらいの男の子が交番の椅子で泣いている。
「うぇぇぇぇ……」
拓海はしゃがみ込んだ。
「お。」
「泣くな。」
男の子は余計泣いた。
「うぇぇぇぇぇぇ……」
主任が呆れる。
「佐伯。」
「はい。」
「お前は第一声が雑なんだ。」
「え。」
「そこで『お、泣くな』じゃねぇ。」
「難しいっす。」
「だから勉強しろ。」
拓海は困ったように頭を掻く。
「ほら。」
「名前言えるか?」
「……。」
「お母さんの名前は?」
「……。」
「好きな食べ物。」
「ハンバーグ……。」
「よし。」
「じゃあハンバーグ食いに帰ろう。」
男の子が少しだけ笑う。
主任が横で苦笑した。
「そこは上手いんだよな……。」
生活能力は壊滅的。
報告書も遅い。
でも。
目の前の人を安心させることだけは、不思議と昔から上手だった。
夕方。
巡回から戻った拓海は、交番前で自転車を降りた。
帯革を外しながら、大きく息を吐く。
疲れる。
毎日疲れる。
警察学校より現場の方が何倍もしんどい。
それでも。
嫌じゃなかった。
「佐伯。」
主任が声を掛ける。
「明日。」
「はい。」
「世田谷と成城の合同警備入った。」
「了解です。」
「交差点規制だ。」
「はい!」
拓海は返事をしながら書類を受け取る。
何気なく配置図を見る。
その瞬間。
一つの文字が目に入った。
”成城警察署”。
「……。」
松本…
いるかな。
そんなことを一瞬だけ思う。
すぐに首を振った。
いるかもしれないし。
いないかもしれない。
もし会ったとしても。
今さら何か変わる訳じゃない。
ただ
同じ警察官として
それぞれの現場で働いている。
それだけだった。
窓の外では、夕日に染まった世田谷の街へ、春の風が静かに吹き抜けていた。
****************
翌日。
五月の風は少しだけ暖かく、制服の上着を着ていると汗ばむくらいの陽気だった。
世田谷署と成城署。
両署合同による交通規制。
休日ということもあり、管内では大きなイベントが開催され、多くの人が駅前へと流れ込んでいた。
「佐伯。」
「はい。」
「今日は世田谷側の規制線担当だ。」
主任が地図を広げる。
「ここから先が成城署。」
「境界越えるなよ。」
「了解です。」
「無線は常に聞いとけ。」
「はい。」
帯革を締め直し、帽子を被る。
拓海は配置場所へ向かって歩き始めた。
交差点はすでに慌ただしい。
制服姿の警察官が各所に立ち、歩行者を誘導している。
「こちらお通りください。」
「車両、一旦停止お願いします。」
無線が絶えず飛び交う。
まさに組織だった。
警察学校の頃とは違う。
誰か一人が勝手に動けば、全体が乱れる。
だから。
まず見る。
考える。
確認する。
それから動く。
拓海は深く息を吸った。
(……よし。)
その時だった。
ふと視線の先に、一人の制服姿が映る。
規制線を挟んだ向こう側。
”成城署側”。
背筋を真っ直ぐ伸ばし、帽子をわずかに被り直す青年。
無駄のない所作。
無線を持つ左手。
灰色の瞳。
「……。」
拓海の足が止まった。
『松本龍平』
向こうも同じだった。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ視線が合う。
警察学校の卒業以来、数か月ぶりだった。
時間にすれば数秒。
けれど、その沈黙は妙に長く感じられた。
やがて
拓海が小さく笑う。
「松本。」
警察学校なら、
「バカちんが!」
と肩を叩いていた。
でも、今日は違う。
龍平もゆっくり近付いてくる。
規制線の手前で止まり、小さく帽子へ指を添えた。
「……佐伯さん。」
「お疲れ様です。」
その声は相変わらず平坦だった。
嫌味もない。
笑顔もない。
ただ。
一人の警察官としての挨拶。
拓海も自然に敬礼を返す。
「お疲れ。」
それだけだった。
ほんの数歩。
互いの距離は変わらない。
警察学校で交わした言葉も。
あの日の「嫌い」も。
消えた訳ではない。
それでも。
二人とも知っていた。
今は仕事中だ。
同期である前に、警察官だった。
「世田谷です。」
「成城です。」
短く担当区域を確認する。
「何かあれば。」
「応援要請を。」
「了解。」
それだけで会話は終わる。
不思議だった。
気まずくない。
親しくもない。
でも。
居心地が悪い訳でもない。
龍平は無線へ視線を戻した。
「成城一号、配置完了。」
「了解。」
拓海も無線を取る。
「世田谷二号、配置完了しました。」
「了解。」
二人は別々の方向を向く。
規制線。
歩行者。
車。
交差点。
仕事は次々と流れてくる。
その途中だった。
外国人観光客らしい男性が困ったような表情で規制線へ近付いてきた。
「Excuse me.」
(すみません)
「Can I cross here?」
(ここ、渡れますか?)
近くの若い警察官が少し戸惑う。
英語だった。
拓海はすぐ近くにいた。
自然と一歩前へ出る。
「I'm sorry.」
(ごめんなさい)
「This road is closed right now.」
(ここは現在通行止めになってます)
「Please use the crossing over there.」
(あっちの横断歩道を使ってください)
男性は安心したように笑う。
「Oh, thank you!」
(ありがとう!)
「You're welcome.」
(どういたしまして!)
軽く会釈を交わし、男性は指差された横断歩道へ歩いていく。
その様子を。
龍平は横目で見ていた。
(……。)
イギリス帰り。
知ってはいた。
警察学校でも英語は飛び抜けていた。
けれど。
実際の現場で、それをごく当たり前に使っている姿を見ると、不思議な感覚になる。
特別なことをしているという顔ではない。
本人にとっては、本当に日常なのだ。
主任が苦笑する。
「佐伯。」
「はい。」
「助かった。」
「いえ。」
「次も頼む。」
「了解です。」
そのやり取りを聞きながら、龍平は小さく視線を落とした。
(……ちゃんと。)
(現場で役に立っている。)
警察学校の頃。
「助けたい」だけで動いていた男。
今は違う。
組織の中で動き。
報告し。
必要な場面で、自分の能力を使っている。
まだ甘い。
まだ危うい。
でも
確かに変わっていた。
龍平は何も言わない。
言う必要もなかった。
無線から新たな指令が飛ぶ。
「成城一号、世田谷二号。」
「はい。」
「東側交差点へ応援。」
「了解。」
二人は同時に走り出した。
互いに一言も交わさないまま。
同じ方向へ。
同じ制服を着て。
同じ使命を胸に。
けれど、決して交わらないまま。
春の交差点を駆け抜けていった。
*************
無線が慌ただしく飛び交う。
「世田谷二号、東側交差点異常なし。」
「成城一号、こちらも異常なし。」
休日の街は賑わっていた。
家族連れ。
買い物帰りの夫婦。
友人同士で笑い合う学生たち。
誰もが、それぞれの日常を過ごしている。
その日常を守るために。
二人は道路を挟んで立っていた。
同じ制服。
同じ警察官。
けれど所属する署は違う。
立つ場所も違う。
それでも無線の向こうでは、同じ指揮官の指示を受け、同じ現場を支えている。
その時だった。
「迷子です!」
母親らしき女性の切羽詰まった声が響く。
「娘が……!」
「さっきまでここにいたんです!」
一瞬で現場の空気が変わった。
主任が無線を取る。
「世田谷二号、成城一号。」
「周辺検索。」
「了解!」
拓海はすぐに動こうとして……
一歩、止まった。
(……まず報告。)
警察学校。
龍平。
”あの日の言葉”。
『その先を考えていますか。』
拓海は無線を握る。
「世田谷二号。」
「北側歩道へ移動します。」
「了解。」
許可を受けてから走る。
”たった数秒”。
昔の拓海なら、その数秒を待てなかった。
「女の子!」
「赤い帽子!」
「四歳!」
走りながら周囲へ声を掛ける。
交差点を一つ越えたところで、小さな公園が見えた。
ベンチの陰。
しゃがみ込む女の子。
「……いた。」
拓海は足を止める。
駆け寄らない。
まず目線を合わせる。
「こんにちは。」
女の子は顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃだった。
「ママ……。」
「大丈夫。」
「もう見つかった。」
拓海は無線を押す。
「世田谷二号。」
「対象発見。」
「北公園。」
「保護します。」
「了解。」
その数分後。
母親が泣きながら駆け寄ってきた。
「ありがとうございました……!」
「いえ。」
拓海は照れくさそうに頭を掻く。
「見つかって良かったです。」
それだけだった。
主任が横へ来る。
「佐伯。」
「はい。」
「ちゃんと報告してから動いたな。」
「……はい。」
主任は少しだけ笑った。
「成長したじゃねぇか。」
拓海は照れ笑いを浮かべる。
「いやぁ。」
「まだまだっす。」
そのやり取りを。
規制線の向こう側から龍平が静かに見ていた。
(……。)
昔なら。
真っ先に飛び出していた。
報告もしない。
周りも見ない。
ただ目の前だけを助けていた。
今は違う。
組織を動かし。
報告し。
連携し。
その上で助けている。
ほんの少し。
ほんの少しだけ。
龍平の表情が和らいだようにも見えた。
もちろん。
笑わない。
「嫌い」は変わらない。
けれど。
一人の警察官として。
目の前の同期を見た。
「……佐伯さん。」
拓海が振り返る。
龍平は帽子へ指を添えた。
「お見事でした。」
たったそれだけ。
褒めた訳ではない。
認めた訳でもない。
ただ。
警察官として。
職務を果たした同期へ向けた、一言だった。
拓海は少し驚き。
それから笑う。
「ありがとな。」
龍平は何も返さない。
踵を返し、自分の持ち場へ戻っていく。
その背中を見送りながら、拓海は小さく呟いた。
「……相変わらず無愛想だな。」
でも。
その声にはもう、警察学校の頃の戸惑いはなかった。
その頃。
イギリス。
ウィルトシャー・ハミルトンホール。
深夜。
日本支社から暗号化通信が届く。
「ハミルトン様。」
「何だい。」
「彼らが接触した。」
エドワードの手が止まる。
「……そうか。」
「和解は?」
「ありません。」
「ただ。」
ジョージは一拍置いた。
「松本くんが、佐伯を"警察官"として見始めた。」
短い沈黙。
エドワードは窓の外へ目を向けた。
霧に包まれた庭園。
春は、まだ遠い。
「それで十分だ。」
静かに答える。
だが。
次の報告が、その静寂を破った。
「もう一つ。」
「例の男です。」
「……。」
「今日の合同警備を確認した直後から、二人の動きを追い始めています。」
空気が変わる。
エドワードの瞳から、わずかに温度が消えた。
「始まったか。」
「ええ。」
ジョージの声も低い。
「本格的に動きます。」
エドワードはゆっくりと椅子へ深く腰掛けた。
拓海は現場を知った。
龍平もまた現場を知った。
二人は、それぞれの場所で警察官になった。
だからこそ。
今度は本物の悪意が、静かに牙を研ぎ始める。
「ジョージ。」
「うん。」
「日本は任せる。」
「もちろん。」
短い返事。
長い付き合いだから、それで十分だった。
通信が切れる。
執務室には再び静寂が戻る。
エドワードは一枚の書類へ視線を落とした。
そこには何も書かれていない。
ただ、彼の脳裏には、制服姿で敬礼を交わした二人の姿だけが焼き付いていた。
(……タクミ。)
(やっと君は、警察官になった。)
(だから今度は。)
(私が君を守る番だ。)
窓の外では、ウィルトシャーの夜霧が静かに庭園を包んでいた。
そして極東では。
何も知らない二人の若い警察官が、それぞれの持ち場で、今日も誰かの日常を守り続けていた。
そのすぐ背後まで。
世界規模の悪意が、静かに近づいていることも知らずに。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
いいねや感想など、いつも励みになっています。
この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




