第五百十三話 「恋愛(プログラム)とは未来を完璧に設計する者の隣で恋人が幼馴染という別ディレクトリの「日常」を少しずつ更新し、気づけば世界の重心そのものが静かに書き換わっている現象の事である」という話
高坂君(´;ω;`)
四月。
都内の少し落ち着いたイタリアンレストラン。
金曜日の夜ということもあり、店内には仕事帰りの会社員たちが静かな笑い声を交わしていた。
窓際の席で、高坂はメニューを閉じる。
向かいでは菜摘が楽しそうに前菜を眺めていた。
「最近、仕事どう?」
高坂が穏やかに尋ねる。
「やっと少し落ち着いたかな。」
菜摘は笑った。
「そっちは?」
「相変わらずかな。」
「忙しい?」
「忙しいけど、慣れたよ。」
社会人二年目。
付き合ってからも六年近くが過ぎた。
お互い仕事にも慣れ、こうして月に何度か食事へ来る。
何も変わらない。
少なくとも、高坂はそう思っていた。
料理が運ばれてくる。
温かなスープ。
焼きたてのパン。
店内には静かなピアノが流れていた。
「そういえば。」
菜摘がスプーンを置いた。
「拓海さ。」
高坂は自然に顔を上げる。
「ああ、佐伯くん。」
「警察学校終わったんだよね。」
「うん。」
菜摘は嬉しそうに笑う。
「地域課になったんだって。」
「世田谷。」
「そうだったね。」
高坂も笑う。
幼馴染の話だ。
今まで何度も聞いてきた。
だから何も気にならなかった。
「でもさぁ。」
菜摘は少し肩をすくめた。
「あいつ、本格的に忙しくなったみたい。」
「この前電話したら全然出ないし。」
「あとから折り返してくるかなって思ったら、そのまま寝てた。」
「佐伯くんらしいね。」
「でしょ?」
菜摘は声を出して笑う。
「あいつ昔から寝落ちだけは世界一だから。」
高坂もつられて笑った。
まだ、この時は。
「昨日なんかさ。」
菜摘はフォークを持ったまま続ける。
「部屋行ったらカーテン付いてなくて。」
「え?」
「引っ越して一週間だよ?」
「そのまま。」
「……。」
「もう笑うしかないじゃん。」
高坂も思わず吹き出した。
「それで?」
「私が測って付けてきた。」
「君が?」
「だってそのままじゃ丸見えだもん。」
悪びれる様子はない。
本当に。
ただ放っておけなかっただけ。
それだけだった。
料理が運ばれてくる。
少し話題が変わる。
会社の話。
上司の愚痴。
同期の失敗談。
笑いながら食事は進んでいく。
けれど。
十分ほど経った頃。
菜摘はまた思い出したように笑った。
「あ、そうそう。」
「拓海さ。」
また?
高坂は心の中でそう思った。
「冷蔵庫開けたら。」
「うん。」
「マヨネーズと牛乳しか入ってなかった。」
「……。」
「絶対まともなご飯食べてない。」
「カップ麺ばっかりなんだろうなぁ。」
呆れたように笑う。
その笑顔は、とても自然だった。
恋人の話をする時の笑顔ではない。
家族の話をする時の笑顔だった。
「だからね。」
菜摘はパスタを巻きながら続ける。
「今度実家寄るついでに食材とか買って持っていこうかなって。」
「食材?」
「絶対まだ何もない。」
「それに洗剤とか柔軟剤とか知らなそう。」
「ゴミの日も分かってない気がするし。」
「ほんと、放っておけないんだよね。」
そう言って笑う。
何の迷いもなく。
何の照れもなく。
高坂は静かにグラスへ手を伸ばした。
笑う。
ちゃんと笑えていた。
「佐伯くん、本当に手が掛かるね。」
「でしょ?」
「昔からあんな感じ。」
「絢子叔母さんも苦労してたもん。」
菜摘は懐かしそうに笑う。
高坂は、その笑顔を見つめた。
会社の話をしている時より。
自分の話をしている時より。
今の方が、ずっと楽しそうだった。
「高坂くん?」
「ん?」
「どうかした?」
「いや。」
高坂は首を横に振った。
「何でもない。」
本当に何でもない。
まだ、そう思おうとしていた。
けれど。
心のどこかで、小さな違和感が静かに形になり始めていた。
菜摘は、拓海のことを好きなのではない。
それは分かる。
自分より拓海を選ぶ。
そんな話でもない。
ただ。
この人の生活の中には。
当たり前のように佐伯拓海がいる。
カーテンのサイズを知っている。
冷蔵庫の中身を知っている。
洗剤が切れる頃まで分かっている。
それは恋ではない。
もっと…
”生活”だった。
もっと深い。
もっと自然な場所。
そこに、自分はいない。
高坂はフォークを置いた。
胸の奥で、小さく何かが軋む。
(……そうか。)
たったそれだけだった。
まだ答えは出さない。
まだ何も決めない。
けれど。
二人で積み上げてきた未来の向こう側に、もう一人の誰かが、当たり前のように立っている。
そんな気がした。
窓の外では、春の夜風が静かに街路樹を揺らしていた。
***********
料理はゆっくりと運ばれてきた。
焼き立てのフォカッチャ。
湯気の立つ料理。
窓の外には仕事帰りの人々が行き交い、春の夜の街が静かに流れている。
「いただきます。」
「うん。」
何気ない会話。
何気ない食事。
それなのに、菜摘はまた思い出したように笑った。
「そうそう。」
「あのバカさ。」
高坂も自然と笑う。
「また佐伯くん?」
「また。」
菜摘は苦笑いを浮かべた。
「昨日ね、やっと電話つながったの。」
「お、珍しい。」
「うん。でも。」
『あー?』
『寝てた。』
『今何時だと思ってんだ、バカ。』
『……んー。』
『飯食った?』
『……カップ麺。』
『また!?』
『……うん。』
『野菜は!?』
『ない。』
『牛乳は!?』
『切れた。』
『買え!!』
菜摘は拓海の声色を真似しながら笑った。
「あいつ最後まで眠そうでさ。」
「電話切る直前に。」
『明日買う。』
って言ってたけど。」
「絶対忘れてる。」
「はは。」
高坂も笑う。
本当に佐伯拓海らしい。
昔からそうだった。
真面目なのに、生活能力だけは驚くほど抜けている。
「だから。」
菜摘はフォークを置いた。
「今度スーパー寄るから。」
「牛乳くらい買って置いてこようかな。」
「牛乳?」
「あと野菜ジュース。」
「卵。」
「洗剤。」
「柔軟剤。」
「……。」
「絶対無いもん。」
「いや。」
高坂は苦笑した。
「そこまで?」
「だって。」
菜摘は本当に不思議そうな顔をした。
「放っておいたら死ぬよ、あいつ。」
「そこまでじゃないでしょ。」
「いや。」
菜摘は即答する。
「拓海だよ?」
「……。」
「三日後には冷蔵庫マヨネーズだけになってる。」
「それはありそう。」
二人で笑う。
笑う。
笑っているのに。
高坂はふと気付いた。
菜摘は。
自然に。
本当に自然に。
拓海の生活を知っている。
冷蔵庫。
洗剤。
食生活。
寝る時間。
電話に出ない理由。
”全部”。
当たり前みたいに知っている。
「そういえば。」
高坂は何気なく尋ねた。
「佐伯くんの部屋って。」
「近いの?」
「ううん。」
「電車で三十分くらい。」
「そうなんだ。」
「でも実家寄る途中だから。」
「へぇ。」
「この前カーテン付けた時も、その帰り。」
「……。」
菜摘はパンを頬張る。
本当に。
何も考えていない。
幼馴染だから。
家族みたいなものだから。
それだけ。
高坂には、そのことが分かる。
分かるからこそ。
胸の奥が少しだけ苦しかった。
恋人に嫉妬している訳じゃない。
佐伯拓海が憎い訳でもない。
あいつは何も知らない。
菜摘も何も知らない。
悪い人間は、一人もいない。
それでも。
「高坂くん?」
「ん?」
「何か考え事?」
「いや。」
高坂は笑う。
「佐伯くんって幸せだなと思って。」
菜摘は吹き出した。
「幸せじゃないよ。」
「あいつ放っておいたら本当に危ないもん。」
「だから?」
「誰か見てなきゃ。」
その一言だった。
高坂の中で。
何かが小さく音を立てた。
"誰か"。
その誰かは。
ずっと菜摘だった。
昔から。
これからも。
きっと本人は、その意味を考えたこともない。
高坂は水を一口飲む。
胸の奥で、静かに答えが形になり始めていた。
(……違う。)
(好きとか。)
(そういう話じゃない。)
もっと。
もっと当たり前の場所。
呼吸をするように。
生活の中に。
佐伯拓海がいる。
そこへ。
自分は入り込めていない。
その事実だけが。
春の夜の静かな店内で。
誰にも気付かれることなく、高坂の胸の奥へゆっくりと沈んでいった。
********
デザートが運ばれてきた。
小さなティラミス。
食後のコーヒー。
さっきまで賑やかだった店内も、少しずつ人が減り始めている。
「そういえば。」
菜摘がコーヒーカップを両手で包んだ。
「来月あたり、実家帰ろうかな。」
「実家?」
「うん。」
「絢子叔母さんにも顔見せたいし。」
「それに。」
少しだけ笑う。
「あいつの部屋も寄ってこようかな。」
「……。」
「春物の布団とか絶対出してない。」
「衣替えもしないだろうし。」
「洗濯物も溜まってそう。」
「ほんと、放っておけないんだよね。」
その一言だった。
高坂は静かにコーヒーへ視線を落とした。
菜摘は何も変わらない。
昔からそうだった。
”誰かが困っていれば放っておけない”。
それがたまたま拓海だった。
……違う。
高坂はそこで初めて、自分の考えを静かに否定した。
違う。
"たまたま"じゃない。
拓海だからだ。
風邪を引けば心配する。
電話が繋がらなければ気になる。
部屋が散らかっていれば片付けに行く。
冷蔵庫が空なら買い物へ行く。
それは恋人だからでも。
恋愛感情だからでもない。
もっと前から。
もっと昔から。
呼吸をするように続いてきた二人の日常だった。
「高坂くん?」
菜摘が不思議そうに首を傾げる。
「どうしたの?」
「いや。」
高坂は笑った。
「何でもないよ。」
嘘だった。
何でもなくはなかった。
ただ。
今ここで言葉にしてしまえば、きっと全部変わってしまう。
菜摘は傷付く。
自分も傷付く。
だから笑う。
それしか出来なかった。
会計を済ませ、二人は店を出た。
春の夜風が少しだけ冷たい。
駅までの道を並んで歩く。
仕事帰りの人たちが足早に横を通り過ぎていく。
「今日はありがとう。」
「ううん。」
「楽しかった。」
「私も。」
本当に。
菜摘は楽しそうだった。
その笑顔を見ながら、高坂はふと思う。
(今年。)
(ちゃんと話そうと思ってた。)
社会人になって二年。
仕事も落ち着いてきた。
来年でも、再来年でもいい。
焦るつもりはなかった。
でも。
少しずつ未来の話をして。
いつか結婚して。
そんな人生を、何となく思い描いていた。
その未来予想図は。
誰かに壊された訳じゃない。
菜摘も。
拓海も。
誰も悪くない。
ただ。
最初からそこに描かれていた一本の線を、自分だけが見落としていただけだった。
駅前で立ち止まる。
「じゃあ。」
「うん。」
「また連絡するね。」
「うん。」
菜摘は手を振り、改札へ消えていく。
最後まで。
本当に最後まで。
何一つ気付かなかった。
高坂はその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
「……今年、伝えようと思ってたんだけどな。」
春の夜風だけが、その独り言をさらっていった。
同じ頃。
イギリス、ウィルトシャー。
ハミルトンホール。
深夜。
静まり返った執務室へ一本の暗号化通信が入る。
『ハミルトン様。』
「何だい。」
『日本だ。』
『……少し、動き始めた。』
エドワードはペンを止める。
『彼女は?』
『まだ何も気付いてない。』
『高坂は?』
通信の向こうで、一拍の沈黙が流れた。
『……気付き始めた。』
それだけだった。
エドワードは目を閉じる。
「そうか。」
短く答える。
それ以上、何も言わなかった。
ジョージもまた、それ以上は聞かない。
『じゃあ、引き続き見てる。』
「ああ。頼む。」
通信が切れる。
静かな執務室。
積み上がる書類。
冷めきった紅茶。
エドワードは窓の外へ目を向けた。
春はまだ遠い。
霧に包まれた庭園は、昼も夜も変わらず静かだった。
(……誰も悪くない。)
高坂も。
菜摘も。
タクミも。
誰一人、悪くない。
だからこそ残酷だった。
誰も嘘をついていない。
誰も裏切っていない。
それでも。
人の心は、理屈では動かない。
「……ジョージ。」
通信は切れている。
返事はない。
それでもエドワードは、小さく呟いた。
「少しだけ……高坂くんが、不憫だね。」
その声は誰にも届かない。
若き伯爵は再び視線を書類へ落とした。
日本では、新人警察官が今日もカップ麺を食べながら床で寝落ちしている。
そのことすら知らずに。
世界の重心は。
誰にも気付かれないまま。
ほんの少しだけ、静かに動き始めていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
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