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第五百十二話 「継承(バトン)とは、誰かから何かを受け取る行為ではなく、もう二度とあのまばゆいモラトリアムには戻れないことを、それぞれの寂しさの真ん中で静かに受け入れる現象のことである」という話

イメージが上手く書けない(´・ω:;.:...

三月下旬。

東京には、浅い春が来ていた。


まだ風は冷たい。

けれど、昼間の陽射しだけは少しずつ柔らかくなり、街を歩く人たちの服装にも、

冬の終わりが混じり始めていた。


同じ頃。


イギリス、ウィルトシャー。

ハミルトンホールには、冷たい霧雨が降っていた。


季節も、街も、空の色も違う。

それでもその頃、二人はそれぞれの場所で、同じものを受け取ろうとしていた。


”もう二度と、学生には戻れない”。


その事実だけが、遠く離れた二つの場所へ、静かに降りてきていた。


世田谷。

線路沿いの古いワンルームマンションで、安物の目覚まし時計が鳴った。


ピピピピ。


ピピピピ。


拓海は布団の中から腕だけを出し、手探りで時計を止める。

部屋が静かになる。


「……。」


誰も起こしに来ない。

母の声もない。

食卓の匂いもない。

玄関先で「忘れ物は?」と聞かれることもない。


当たり前だ。

家を出たのだから。


拓海はしばらく天井を見ていた。


薄いカーテンの向こうから、電車の音が聞こえる。


ごう、と遠くを走り抜ける音。

それだけが、朝が来たことを教えていた。


「……起きるか。」


呟いて、布団から出る。


床には脱ぎっぱなしの服。

椅子の背には昨日の制服のシャツ。

流しには洗っていない皿が一枚。


冷蔵庫を開ける。


卵。

牛乳。

マヨネーズ。


以上。


「……終わってんな。」


拓海は冷蔵庫を閉めた。


トースターに食パンを突っ込む。


焼きすぎた。

黒い。

それでも食べる。

缶コーヒーで流し込む。


実家では、こういうことを考えたことがなかった。

朝起きれば飯があった。

洗濯物は、気づけば畳まれていた。

ゴミの日なんて意識したこともなかった。

自分が何もしていなくても、生活はちゃんと回っていた。


けれど今は違う。


放っておけば、皿は増える。

洗濯物は溜まる。

ゴミ袋は重くなる。


「……めんどくせぇ。」


本音だった。

けれど、その面倒くささを誰かへ渡すことはできない。

自分でやるしかない。

拓海は頭を掻きながら、ゴミ袋を縛った。


「俺、警察官になる前に生活で死ぬんじゃねぇのか、バカちんが……。」


そう言いながらも、袋を持って玄関を出る。


朝の世田谷の空気は冷たい。

でも、少しだけ春の匂いがした。


同じ頃。

ハミルトンホールでは、葬儀が終わろうとしていた。


黒い服。

低い声。

雨に濡れた石畳。


誰も大きく泣かなかった。

泣いてはいけないわけではない。

ただ、そういう家だった。


悲しみさえも、形を整え、静かに処理する。

ハミルトン家とはそういう場所だった。


エドワード・ハミルトンは、父の棺が運ばれていくのを見ていた。


父は、長く病床にあった。

だから、いつかこの日が来ることは分かっていた。

在学中から、彼は父の代わりに多くのものを背負ってきた。


会議。

書類。

事業。

人事。

責任。


それでも、まだどこかで思っていたのかもしれない。

自分は代理なのだと。

父がいる限り、自分はまだ息子でいられるのだと。


だが、その日は終わった。


葬儀が終わる。

雨が降る。

人々が静かに頭を下げる。


そして翌朝。

エドワードは喪服を脱ぎ、執務室へ入った。


重い扉が閉まる。

机の上には、すでに書類が積まれていた。


「伯爵。」


誰かがそう呼んだ。


その瞬間。

”学生だったエドワード・ハミルトンは、静かに終わった”。


「こちらへご署名を。」


「午前十時より理事会です。」


「午後は財務監査の報告が入っております。」


「主要資産の移動について、最終確認をお願いいたします。」


言葉が次々に降ってくる。

父の死を悼む時間など、ほとんどなかった。


いや。

悼むことさえ、仕事の合間へ押し込めるしかなかった。


エドワードは椅子へ座る。


ペンを取る。

署名する。

読み、判断し、指示を出す。


昨日までと同じ動作のはずだった。

けれど、今日からは違う。


もう「父の代理」ではない。

自分の名前で、すべてが動く。

その重さだけが、静かに肩へ乗っていた。


夜。


世田谷のワンルーム。

拓海は交番勤務を終えて帰ってきた。

玄関で靴を脱ぎ、そのまま床へ座り込む。


「……疲れた。」


制服の帯革を外す。


肩が重い。

足も重い。

頭も重い。


交番は思っていたよりずっと忙しかった。


道案内。

落とし物。

巡回。

報告書。

無線。

先輩の怒号。


万引き犯を追って走った時より、書類を書いている時の方が疲れる気がした。


拓海はコンビニ袋からカップ麺を取り出す。


湯を沸かす。

待つ。

三分。


その三分の間に、スマホを手に取った。


画面を開く。

連絡先。

指が自然に止まる。


【エドワード・ハミルトン】


名前を見るだけで、少しだけ懐かしい気持ちになった。

学生の頃なら、何でもないことで話していた。


「腹減った。」


「ノートどこやった。」


「今日の教授、性格悪いぞ。」


そんなくだらないことを、いくらでも話せた。


今は違う。

エドワードは、きっと忙しい。

ハミルトンの仕事で。


父親の代わりに、もっと多くのものを抱えているはずだ。

拓海は画面を見つめたまま、小さく笑った。


「……あいつ、今頃また書類に埋もれてんだろうな。」


発信ボタンには触れなかった。


カップ麺の蓋を開ける。

湯気が上がる。


部屋には、インスタントの匂いだけが広がった。


イギリス。

午前四時。


ハミルトンホールの執務室には、まだ明かりがついていた。


窓の外は暗い。

雨は止んでいたが、庭園には白い霧が残っている。

エドワードは書類へ目を通していた。


冷めた紅茶が隣にある。

一口も飲んでいない。

日本支社から定時連絡が入る。


「ハミルトン様。」


「何だい。」


「……"彼"には伝える?」


その一言だけで十分だった。


誰のことか。

何を伝えるのか。

そんな説明は必要ない。


エドワードはペンを止め、ほんの少しだけ窓の外へ視線を向けた。


「……いや。」


短い沈黙。


「今は、まだいい。」


通信の向こうで、小さく息をつく気配。


「そう言うと思った。」


ジョージは苦笑する。


「でも、あいつ怒るぞ。」


「分かっている。」


「絶対、『何で言わねぇんだ、バカ』って飛んでくる。」


「だから言わない。」


エドワードは静かに笑った。


「今のタクミには、タクミの仕事がある。」


「……だな。」


ジョージも、それ以上は何も言わない。


「じゃあ、日本はこっちで見てる。」


「ああ。頼む。」


「任せろ。」


通信が切れる。

それだけ答えて、通信を切る。


扉が閉まる。

エドワードはしばらくペンを持ったまま動かなかった。


本当は。


言いたかった。

父が死んだ。

私は一人になった。


『タクミ。君に聞いてほしい』


そう言えたなら、どれほど楽だっただろう。


けれど、言えなかった。

拓海には、拓海の現場がある。


あの男は今、日本で、自分の足で泥を踏もうとしている。

自分が呼べば、その足を止めてしまう。


それだけはできなかった。


エドワードは引き出しを開ける。

奥にしまっていた小さな封筒を取り出す。


古い写真が数枚。

学園都市の芝生。


ラグビー部の集合写真。

泥だらけで笑っている拓海。

その横で、少し呆れた顔をしている自分。


もう一枚には、拓海の雑な字で書かれたメモが挟まっていた。


『エド、昼飯食え。バカ』


エドワードは、それを見てほんの少しだけ笑った。

本当に、一瞬だけだった。


次の瞬間には封筒を戻し、引き出しを閉じる。

そしてまた、伯爵の顔で書類へ向かった。


世田谷。

拓海はカップ麺を食べ終える前に、床で寝落ちしていた。


テーブルには割り箸。

スマホ。

空いたカップ麺。


洗濯物はまだ干していない。

ゴミ袋も玄関に置いたままだ。


窓の外を、夜の電車が走っていく。


イギリス。

エドワードはまだ眠らない。

書類をめくる音だけが、広い執務室に響いていた。


同じ夜。

けれど、まるで違う部屋。


狭いワンルームと、広すぎるハミルトンホール。

床で眠る新人警察官と、眠ることを許されない若き伯爵。


二人は互いに連絡しなかった。


言わないことを選んだ。

呼ばないことを選んだ。

それは強さではなかった。

優しさとも少し違った。

ただ、もう子どもではいられないという事実を、それぞれの場所で受け入れ始めただけだった。


春は静かに始まっていた。


あのまばゆい学生時代は、もう戻らない。

それでも二人は、それぞれの場所で、自分の足で立とうとしていた。

ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

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