第五百十一話 「配属(ログイン)とは、教場の規律を飛び出して本物の交番へ足を踏み入れた瞬間、右も左も分からないまま、街の困りごとと無線と道案内に振り回されながら、走って覚える現象のことである」という話
がんばる拓海君
三月。
世田谷警察署。
警察学校を修了した佐伯拓海は、真新しい制服に袖を通していた。
鏡の前に立つ。
制服。
帯革。
手錠。
警棒。
拳銃。
警察学校でも何度も身につけた装備のはずだった。
けれど、その日は重さが違った。
訓練ではない。
教場でもない。
今日から自分は、本当に街へ出る。
本物の警察官として。
「……。」
拓海は鏡の中の自分を見た。
似合っているのかどうかは分からない。
ただ、肩に乗った重さだけは分かった。
「よし。」
小さく息を吐く。
「行くか、バカちんが。」
誰に言うでもなく呟いて、拓海は世田谷の交番へ向かった。
配属された交番は、思っていたより狭かった。
デスク。
椅子。
電話。
無線。
書類。
地図。
古い掲示物。
奥の小さな休憩スペース。
テレビドラマで見たような格好良さは、あまりない。
けれど、空気だけはやけに濃かった。
電話が鳴る。
無線が入る。
近所の老人が道を尋ねに来る。
落とし物を持った子どもが入ってくる。
先輩たちは、それを当たり前のように処理していく。
拓海だけが、その流れについていけなかった。
「佐伯。」
「はい!」
「声がでかい。」
「はい!」
「だからでかい。」
「すみません!」
「もっとでかい。」
交番の中に小さな笑いが起きる。
主任は眉間を押さえた。
「返事だけは一級品だな。」
「ありがとうございます!^^」
「褒めてねぇ。」
拓海は真剣だった。
真剣にやっている。
なのに、何をしても一拍遅れる。
無線は途中からしか聞き取れない。
住所を言われても地図のどこか分からない。
報告書を書こうとすると、漢字と数字と略語で頭が止まる。
「佐伯、これ転記。」
「はい!」
「そこじゃない。」
「はい!」
「違う。」
「はい!」
「返事じゃなくて場所を見ろ。」
「はい!」
「……お前、警察学校で何を覚えてきた。」
「根性です!」
「それは分かる。」
主任は深くため息をついた。
けれど、その声は不思議と冷たくなかった。
交番勤務は、拓海が想像していたものとは少し違っていた。
事件。
犯人。
逮捕。
そんなものばかりではない。
むしろ、最初に飛び込んでくるのは、もっと細かく、もっと生活に近いことだった。
道案内。
落とし物。
迷子。
自転車の防犯登録。
近所の騒音相談。
酔っ払い。
鍵をなくした老人。
泣いている子ども。
「警察官って、こんなこともやるんすね。」
巡回から戻った拓海が、ぽつりと呟く。
主任は湯呑みに茶を注ぎながら答えた。
「地域課は、そういう仕事だ。」
「悪い奴を捕まえるだけじゃないんすか。」
「それだけで済むなら楽だな。」
主任は短く笑う。
「街で困ったことがあった時、最初に来るのが交番だ。」
拓海は交番の外を見た。
春になりかけの街。
自転車。
犬の散歩。
買い物袋を下げた人。
制服姿の学生。
その全部が、自分の管内だった。
「……なるほど。」
「分かったか。」
「いえ、全然。」
「正直でよろしい。」
主任は呆れた顔をした。
ある日の昼過ぎ。
泣いている幼い男の子が、近所の女性に連れられて交番へ来た。
迷子だった。
「お母さんとはぐれたみたいで。」
女性が心配そうに言う。
子どもは顔を真っ赤にして泣いている。
拓海はしゃがみ込み、目線を合わせた。
「おい。」
子どもがびくっとする。
「泣くな、バカちんが。」
「佐伯。」
主任の声が飛ぶ。
「子どもにバカちん言うな。」
「あ。」
拓海は少し考える。
「泣くな、えーと……坊主。」
「それもどうかと思うぞ。」
子どもは泣きながらも、少しだけ拓海を見た。
拓海はポケットをごそごそ探る。
小さな飴玉が出てくる。
「ほら。」
「佐伯。」
主任の声が二段階低くなった。
「勝手に食い物を渡すな。」
「あ。」
「アレルギー確認。保護者確認。まず名前を聞く。」
「はい!!」
拓海は慌てて飴をしまった。
「名前、言えるか?」
子どもは鼻をすすりながら、小さな声で答える。
拓海はその声を聞き逃さないように、必死でメモを取った。
字が少し歪んだ。
それでも、書いた。
やがて母親が駆け込んできた。
泣きながら子どもを抱きしめる。
「ありがとうございました。本当に、ありがとうございました。」
何度も頭を下げる母親を見て、拓海は少しだけ黙った。
胸の奥が、変なふうに温かくなる。
助けられた。
今回は。
でも。
ふと、龍平の声がよみがえる。
”その先まで考えていますか”。
拓海は顔を上げる。
主任が見ていた。
「佐伯。」
「はい。」
「今のはよく聞けていた。」
「……はい!」
「声がでかい。」
「すみません!」
「だからでかい。」
交番にまた笑いが起きた。
別の日。
交番の前で、外国人の夫婦が地図を広げて困っていた。
スマートフォンを片手に、何度も通りの名前を見比べている。
主任がちらりと拓海を見る。
「佐伯。」
「はい!」
「お前、英語できるんだったな。」
「え?」
「英国の大学出てるんだろ。」
「ああ、まあ。」
「行け。」
「はい!」
拓海は交番の外へ出た。
夫婦が少し不安そうにこちらを見る。
拓海は自然に表情を緩めた。
"Excuse me. Can I help you?"
(お手伝い、しましょうか?)
その瞬間、夫婦の顔がぱっと明るくなる。
"Oh, thank you. We're looking for this station."
(ありがとう!この駅を探してました!)
スマートフォンの画面を見せられる。
拓海は地図と通りを見比べる。
"Okay. Go straight for two blocks, then turn left at the traffic light. You’ll see the station entrance on your right. About five minutes."
(わかりました。2ブロックまっすぐ進んで、信号を左に曲がってください。右手に駅の入り口が見えてきます。5分くらいかかるかな。)
"Five minutes?"
(5分?)
"Yes. Maybe seven if you walk slowly."
(えぇ。ゆっくり行けば7分かも。)
夫婦が笑った。
"Thank you so much."
(どうもありがとう)
"No problem. Take care."
(問題ないです。気を付けて!)
自然に出た英語だった。
交番の中では、先輩たちが少し驚いた顔で見ていた。
主任が腕を組む。
「……本当に普通に喋るんだな。」
「大学イギリスだったんで。」
「ふうん。」
それだけだった。
けれど数日後。
署の中で、誰かが言った。
「地域課の新人に、英語できる奴がいるらしいな。」
その小さな噂が、後にどこへ繋がっていくのか。
この時の拓海は、まだ何も知らなかった。
そして、初めて全力で走った日が来る。
昼下がり。
交番の電話が鳴る。
主任が受話器を取る。
表情が変わる。
「万引き被疑者、逃走中。男。黒い上着。住宅街方面。」
拓海は反射的に外を見た。
交番の前の通りを、黒い上着の男が走っていく。
「……あ。」
主任が叫ぶ。
「佐伯!」
「はい!」
「追え!」
「はい!!」
考える暇はなかった。
拓海は飛び出した。
帯革が鳴る。
警棒が揺れる。
制服が重い。
走りにくい。
警察学校のグラウンドとも、ラグビーのフィールドとも違う。
ここは街だった。
自転車。
歩行者。
車。
路地。
曲がり角。
それでも、拓海は走った。
「止まれーー!!」
男が振り返る。
さらに速度を上げる。
「止まれって言ってんだろ、バカちんがーー!!」
あとで怒られるやつだ。
分かっている。
たぶん怒られる。
それでも声が出た。
肺が焼ける。
足が地面を蹴る。
制服が身体にまとわりつく。
それでも前へ出る。
男が路地へ入る。
拓海も続く。
壁。
ゴミ置き場。
狭い道。
その先で、男の足がもつれた。
拓海は一気に距離を詰める。
「動くな!」
声が、自分でも驚くほど低く出た。
先輩が追いつく。
確保。
全てが終わったあと、拓海は膝に手をついて息を吐いた。
「……制服、走りづれぇ……。」
先輩が肩で息をしながら言う。
「そこか。」
「いや、マジで……。」
「佐伯。」
主任の声が無線から飛ぶ。
「はい!」
「声がでかい。」
「すみません!」
「それと、バカちんは禁止だ。」
「はい!」
「現場で叫ぶな。」
「はい!!」
隣の先輩が笑いを堪えていた。
拓海も少しだけ笑った。
まだ何も分からない。
何が正解なのかも分からない。
でも。
分からないまま、今日も走った。
”考えながら走る”。
それだけは、あの夜に決めたことだった。
その夜。
イギリス・ウィルトシャー。
ハミルトンホール。
ジョージからの短い報告書を受け取ったエドワードは、静かに目を通した。
佐伯拓海。
世田谷署地域課勤務開始。
初日より道案内、迷子対応、巡回。
英語対応あり。
万引き被疑者を徒歩追跡。
怪我なし。
エドワードは最後の一行を見て、ようやく息を吐いた。
「……怪我はないのだね。」
通信の向こうでジョージが笑う。
「最初にそこですか。」
「それ以外に何を聞けと?」
「まあ、サエキですしね。」
エドワードは報告書を閉じた。
窓の外には、夜が広がっている。
タクミはもう、教場の中にはいない。
本物の街を走っている。
知らない誰かのために。
相変わらず不器用で。
相変わらず眩しくて。
相変わらず、目を離すには危なすぎる。
「……引き続き、報告を。」
「了解。」
通信が切れる。
エドワードはしばらく報告書へ視線を落としていた。
やがて小さく呟く。
「……走っているのだな、タクミ。」
遠く離れた日本で。
制服を着た大型犬は、今日も街の中を走り始めていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




