第五百十話 「卒業(パケット)とは、答えを完成させて檻を去る行為のことではなく、未完成の「問い」を胸に抱えたまま、それぞれの現場(セクタ)へ歩き出す現象のことである」という話
次から拓海の新米警察官かなー
二月下旬、警視庁警察学校。
半年に及ぶ警察学校生活も、今日で終わる。
過酷な訓練。
終わらない座学。
連帯責任。
そして、何度も突きつけられた現実。
そのすべてを終えた教場には、不思議な静けさだけが漂っていた。
教官が教壇の前へ立つ。
「—起立。」
一斉に椅子が鳴る。
教場を満たすのは、紙一枚めくる音すら響きそうな張り詰めた空気だった。
教官は教室全体をゆっくり見渡す。
「これより、配属辞令を交付する。」
その一言だけで、教場全体の空気が変わった。
昨日までの同期。
今日からは、それぞれ別々の警察官になる。
一人ずつ名前が呼ばれる。
「○○警察署。」
「○○警察署。」
返事。
敬礼。
辞令。
その繰り返し。
誰も笑わない。
誰も騒がない。
半年間の最後に渡される一枚の紙は、それほど重かった。
「—佐伯拓海。」
「はい!」
拓海は勢いよく返事をし、教壇へ向かう。
辞令を受け取り、席へ戻る。
静かに紙を開く。
そこに書かれていた文字。
『警視庁 世田谷警察署』
その瞬間だった。
拓海は初めて、本当の意味で実感した。
(……俺、本当に警察官になるんだ。)
警察官とは何か。
人を助けるとは何か。
龍平から突きつけられた問い。
菜摘から渡された「事情」という言葉。
夜中、一人で眠れず考え続けたあの日。
答えは、まだ出ていない。
それでも。
拓海は辞令を見つめながら、小さく笑った。
(……分かんねぇ。)
(でも。)
(考えながら走ればいい。)
(本物の警察官になりながら、答えを探せばいいんだ。)
それだけで十分だった。
続いて呼ばれる。
「—松本龍平。」
「……はい。」
龍平も静かに辞令を受け取る。
席へ戻り、封を開く。
『警視庁 成城警察署』
拓海は思わず視線を向けた。
世田谷。
成城。
同じ警視庁。
けれど別の署。
毎日顔を合わせることもない。
それぞれ違う現場で警察官になる。
そんな、絶妙な距離だった。
全員へ辞令が渡り終える。
教官は教壇へ戻ると、しばらく何も言わなかった。
やがて静かに口を開く。
「警察学校は、これで終わりだ。」
一拍。
「だが。」
教官の視線が教場を走る。
「現場では、誰も正解を教えてくれない。」
「教官もいない。」
「答えは、自分で考えろ。」
短い言葉だった。
けれど拓海には、その一言が誰より深く響いた。
『その先を考えていますか。』
龍平の声が脳裏によみがえる。
(ああ。)
(そういうことだったのか。)
まだ理解しきれない。
それでも。
考え続けるしかない。
解散の号令。
張り詰めていた教場が、一気に賑やかになる。
「写真撮ろう!」
「飲み行くぞ!」
「また会おう!」
笑い声が飛び交う。
その中で、龍平だけは荷物を持ち、静かに教場を出ようとしていた。
拓海は、その背中を見送る。
少しだけ迷う。
昔なら。
何も考えず飛びついていた。
「松本!」
龍平が立ち止まる。
ゆっくり振り返る。
「……何ですか。」
拓海は少し笑った。
「現場でも。」
「頑張ろうな。」
余計な言葉は足さない。
理由も聞かない。
距離も詰めない。
ただ、それだけ。
龍平は拓海を見つめる。
ほんの一瞬だけ間を置き、
「……はい。」
そう答えた。
「失礼します。」
それだけ言うと、踵を返し、人混みの中へ消えていく。
最後まで。
龍平は拓海を理解しなかった。
好きにもならなかった。
嫌いなままだった。
それでも。
警察官として現場に立つ者同士の礼儀だけは、最後まで崩さなかった。
その夜。
イギリス・ウィルトシャー。
ハミルトンホール。
秘書が一通の報告書を机へ置いた。
「日本支社のジョージ・ラングレー様よりです。」
エドワードは書類から顔を上げる。
一枚目には短く書かれていた。
『タクミの配属先が決まったよ。』
エドワードは静かにページをめくった。
世田谷警察署。
その文字を見つめ、
静かに息を吐く。
「……そうか。」
それだけだった。
親友はもう、学生ではない。
今日から、本当の警察官になる。
その現実を、誰より静かに受け止めた。
そして。
日本のどこか。
一枚の資料が机へ置かれる。
『世田谷警察署』
『成城警察署』
二つの名前を眺めながら、一人の男が薄く笑った。
「……始めるか。」
春は、もうすぐだった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
いいねや感想など、いつも励みになっています。
この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




